【Ⅰ】
「庸子ちゃん?上田さんにおめでとって云って!ケータイ、つながんないの」
「ハナさん?え、何、どうしたん?」
突然かかってきたハナからの興奮ぎみの電話に、庸子は驚いた。
「どうしたじゃ、ないでしょ、とぼけて!上田さん、○○賞入選したんでしょ!?」
興奮したハナが口にした賞は、これまで上田が入選してきたものとくらべて、格も知名度もはるかに高いものだった。古参の出版社が主催するその賞は、第一線で活躍している多くの作家を輩出している。
「わぁ!すごい!すぐ見てみる」
ケータイを切り、胸をはずませ、大学の近くの書店に駆けこむと、文芸誌のコォナァに平積みされている、厚みのあるその雑誌を手にとる。優秀賞――上田斗志岐の名前が、真っ先に眼に入った。心臓が2倍に膨らんだような昂揚。我慢できずに、ペェジをめくる。上田の文体だ。彼独特の、彼にしか書けない、彼だけの文体だ。庸子が魅せられ、心から愛した上田の物語だ。
5分、10分と読みすすめるうちに、膨らんでいた庸子の心臓が、突然凍りつく。
――ウソだ……そんな!?あわてて他のペェジをめくる。ここも、ここも……最後の場面……ここも……どうして……?
とまどいが胸の奥に広がる。気がつかないうちに、雑誌を閉じていた。
* * *
小説にあこがれる、ただの高校生だった遊佐庸子が、初めて地元在住の作家上田斗志岐と“出会った”のは、彼のサイトでだった。そこは上田が主宰する、各自が持ちよった作品についての意見交換や、書評をおこなう穏健なサイトで、居心地のよいサロンめいた雰囲気があった。ハナと出会ったのも、このサイトでだった。
上田は若いころからいくつかの賞を受賞して、すでに作家としての地位をある程度確立しており、地元の地方紙にはコラムを持ち、知名度は高かった。そしてサイト上に公開する彼の作品は、投稿された他の作品とくらべても、やはりずば抜けて優れていた。
彼の小説は穏やかで、やわらかく肌になじむ感じだ。最初は水のようになめらかに内側に入ってきて、ある瞬間に、自分の中にあふれんばかりに満ちていることに初めて気がつく。しかし同時に、上田のつむぐ物語はひどく繊細で危うげであり、それが庸子に物足りなさを感じさせる時があった。
読みすすむうちに、彼に強く魅せられていくのを感じた庸子は、その正直な感想を掲示板にコメントした。彼の熱心な読者からの反論。それに対する意見、また反論。庸子も含めた幾度かのやりとりの後、上田自身のコメントが載った。
『……(庸子のHN)さんの云うとおり、小説を書くということは、それが外側にある事象をモチィフにしていても、自分の内面に取りこまれた(心象的な)映像を再度、外界に投影するという段階をふんでいる限り “自分”からは、決して逃れられないと思うのです。
物語がおもしろくないのであれば、それは僕自身の心の未熟さ、未成熟さのせいです……』
僕自身の心の未熟さ、未成熟さ……
何て危うくて、頼りなげな大人の言葉なのだろうか?上田の物語に魅せられていた庸子は、さらに上田という個人に惹かれていくことになる。自身の小説を投稿し、論議に加わり、庸子はそのサイトの中に、段々と自分の居場所を作りあげていった。
* * *
初めて彼と出会った日のことを、庸子は生涯忘れない。
サイトのメムバでのオフ会だった。夕方6時、そして予約されていた店から、アルコォルが供される場であるということは、充分予測できたことなのに(案内にも書かれていた)、地下へ降りる階段を前にして、初めてそのことに思いいたった。どういうわけか、皆でお茶でも、という雰囲気を勝手に連想していた。実物の上田斗志岐に会えるという期待だけが、先行していたのだ。
初めての店に、それもおそらく自分より年上の人たちの中に入りこんでいくには、気後れがする。もう6時半に近い。ひょっとしたら、皆もうお酒呑んでるかもしれない。あきらめて帰るか?いや、せっかく上田斗志岐に出会えるのに。それに掲示板でハナシをした人たちと、顔を合わせる機会を失うのもいやだ。大体、参加って申し込んでおいて、急にキャンセルしたら迷惑をかけるんじゃ……
階段の前で躊躇する庸子の脇を、1組の男女が通りすぎた。男性がちらりと庸子をみやり、階段を降りかけて脚を止めた。振り返る。年齢は30をいくつかすぎたくらいか。小柄でやわらかい物腰。柔和な表情、眼鏡の奥の瞳は小動物のようにおだやかだ。何かを憶いだそうとするように庸子を見つめていたが、意外に確信的に訊ねた。
「ひょっとして……?」
隣の女性が、驚いたように庸子を見つめる。彼が口したその名が、自分のHNだと思いつくのに、少しだけ時間がかかった。
「はいッ!……あ!」急に直感した。「……あの、もしかして、上田斗志岐さんですか?」
「ええ」
「わッ!」思わず声が出た。「すごい。はじめまして!遊佐庸子って云います!あ、HNは友達の名前で、ホントはええと、遊ぶに佐藤の佐で遊佐。庸子は、中国の四書で『中庸』ってのがあるんですけど、平凡っていうような意味で…… 高田馬場の決闘とか、忠臣蔵で有名な堀部安兵衛武庸(たけつね)の庸の字で……あの、わかりませんよねぇ……?」
「いや」上田は笑いながら「わかりますよ。堀部安兵衛ですね、16人斬りの。伊保里さんも知ってるでしょう?」「そう、その庸です!」
嬉しくって、飛び跳ねる。隣の女性が、おかしそうに笑う。
【Ⅱ】
上田が庸子のものになるまで、長い時間が必要だった。彼は庸子よりはるかに大人であり、隣には将来上田伊保里となるべき女性がいたからだった。
そのために、庸子はいろいろなものを手放さなければならなかった。上田が主宰するサイトもそのひとつだった。幸い仲のよいハナだけは、彼女の立場を賛同はできないまでも擁護してくれた。
月が欠け、そして満ちていくように、時は流れた。それは奇妙で危うい蜜月だった。
小説はずっと書いていたが、読むのはもう上田だけだった。上田は庸子の物語を読み、デビュできるよとよく笑った。庸子はその度に、そんなこと無理だよと笑い、彼に軆をあずけた。
「いや、人を惹きつける物語を書くってことは、技術じゃないと思うよ。きっとそれ以上のものが必要だ」意外にまじめな顔で「文章のうまさのその先に、物語自体の輝きがある。これは習得したくても、できるものじゃない。それを持って生まれてきた者、自分の言葉として表現できる者が、本当の物語の書き手だ」
「物語のきざはし、だね」
「何、それ?」
「ほら、曇り空のすきまから、太陽の光が差しこんで、まっすぐな光の柱みたいになるでしょ?それを伝って、物語が天使みたいに地上に降りてくるんだよ。薄暗い曇りの日に、光が差したその場所だけは明るくって、物語が降りてきたそこに生えている樹や草は、他のものとは全然違うと思うの」
「特別な場所に生えている樹や草……?」
とまどったように、上田はつぶやく。庸子はそんな上田の表情がおかしくって、無邪気につづける。
「うん、あたしは上田さんみたいに難しいことはわかんないけど、ホントにいい物語を書くことができる人って、きっとそんな特別な樹や草を探し出して、スケッチブックに写しとることができる人のことじゃないかな?」
* * *
「こんなハナシ考えた。ちょっと書いてみたの」
プリントアウトした庸子の物語を、上田はしばらく食い入るようにながめていた。
「どう?」
わずかな沈黙の後、上田は応えた。
「……庸子の物語、どんどん削ぎ落とされていくね。余分なもの、冗漫なもの、いらないものが剥ぎ取られていって、研磨されて、少しずつ透明になっていってる」
「砥石がいいから」
「……僕のこと?」
「そう」庸子が笑う。「上田さんが見てくれてるから」
上田はじっと庸子を見つめる。霞の向こうの、どこか遠い場所を見るような眼をしていた。
「これは、ゆっくり読ませてもらえるかな」
「いいけど。ね、上田さん、また何か応募するの?」
「う~ん、そうだなぁ。最近は仕事も入ってくるようになったから、なかなか体が空かないな」
「でも、ホントに書きたいものじゃないんでしょ?結構、ぎちぎちしてるよ。いいハナシ、書いてほしいな」
「そうだな。もう少し高いハァドルにでも、挑戦してみようかな?」
上田はそう云うと、ちょっとこまったように笑った。
もちろん肉づけしなおされ、練りなおされてはいたが、上田が受賞した作品はまぎれもなく、その時庸子が彼に渡して、そのまま忘れられていたあの物語だった……
* * *
彼のアパァトにたどりつき、何度かドアを叩いたが、返事はない。庸子はポケットの中の合鍵を使って、中に入った。スニィカを脱ぎすて、部屋にあがると、まったく動かない空気を感じた。
いない……
文学賞の発表の当日、入選者がのんびりと、自分の部屋にいるなんて、どうして考えたんだろうか?そんなこともわからないほど、自分は混乱しているんだろうか?
部屋から出ようとして、ふとテェブルの上に置かれているノォトパソコンに、眼が留まった。ここから彼の物語は生まれた。そしてまだ顔も知らなかったころ、これが庸子と彼をつないでいた、唯一の糸だった。
胸が苦しい。庸子はその場に座りこんだ。膝を立て、すべての困惑を頭の外に追い出すように、顔を伏せた。
自分の物語を彼が使ったとか、そしてそれが何らかの賞をとったとか、そんなことはどうでもよかった。庸子はただ、上田に自身の物語を描いてほしかった。それを充足させてほしかった。
それは上田以上に、庸子の願望だった。夢であった。
なのにどうして……どうして上田は自分の物語を、自分の言葉を、情熱を、手放してしまったのだろう?
これは裏切りだ。
窓の外では、街を行きかう人たちの歓声が聞こえる。車や単車のエンジン音、小学校のサイレン、どこかでやっている工事の騒音。
庸子はすべてを閉ざした。小さくちぢこまることによって、自分と、上田が裏切った世界とを隔絶しようとした。
どれぐらいの間、そうしていただろうか。
庸子はのろのろとポケットからケータイを取り出した。彼のナムバを指が探す。長い呼び出し音がつづき、途切れる。はるかな空間をへだてて、彼のかすかな息遣いが伝わる。
「遊佐です」
誰がかけたのか、相手にわからないはずはないけれど、庸子は名乗った。
「おめでとうございます」
枯れた小枝のように、ぎこちなく、庸子は聞きとれないほど小さくそう伝えた。惑乱を越えて、でも、信じがたいほどの薄さで、硬く、純粋に結晶したような言葉。電話の向こうの沈黙が、かすかに揺らいだ。
そして庸子は、静かにケータイを切る。
「誰ですか?」
対面の記者が、いぶかしげに訊ねた。上田は応えずに、凍りついたままもう何も伝わらないケータイを見つめていた。
不思議なほどに平静だった。後悔も罪悪感もない。ただ自分が取り返しのつかないものを、失ってしまったことだけはわかった。だから何も云えなかった。
窓の外では、宵闇だけが濃くなっていく。
【Ⅲ】
あの日、上田斗志岐が死んだこの場所で、庸子と伊保里は、秋の終わりの厚い雲と風と、それ以外の冷たさに震えて耐えていた。ずいぶん久しぶりに電話で話した伊保里が、この場所で会いたいと伝えてきたのだ。
知名度の高い文学賞を受賞した作家が、発表のその日に自殺したニュウスは、一時世情を騒がせた。
人々は彼を区分し、様々なレッテルをはることに狂奔し、存分に味わい、そして飽きた。 それはまるで上田斗志岐という人物が、はじめっからどこにもいなかったような忘却ぶりだった。
伊保里は庸子が差し出した葉書を無言で受けとると、長い間眼を落として動かなかった。
『僕の創作した物語で、多くの人たちの心をとらえたかった。僕の物語で、ほんの少しでもこの世界を震わせ、世界のどこかに僕の名前を刻みたかった。それが僕のささやかな夢でした。
物語のきざはしの話をしたことを憶えていますか?あの時すでに、君は僕の言葉よりはるかに遠い場所にいました。僕には決して手の届かない場所です。僕がいつか、たどりつきたいと渇望していた場所です』
彼のバッグにいつも入っている、何枚かの葉書のうちの1枚につづられた、長い時間を歩きつづけて、彼がその直前に書きのこした、わずかな言葉の群。それだけだった。 庸子の元に上田からの葉書が届いたのは、彼の死の翌日のことだ。
さよならも何もない。ただ最後に、何かを書きかけて、消した跡だけがのこる。そこに記されるべき言葉は何だったのだろうか?
「……彼、ワァプロじゃうまくカンジが出ないって云って、必ず手書きして、それから清書してたの」
長い沈黙の後、葉書から眼を離さず、伊保里はつぶやいた。
「あたしは、彼が手書きしてたとこ、見たことないです」
「それがあなたと私の差よ」
「でも、彼が最後に言葉をのこしたのは、あたしにです」
次の瞬間、伊保里の平手が、庸子のほほを激しくぶっていた。伊保里はもう、葉書に眼を落としていなかった。燃えるような眼で庸子をにらみつけ、庸子をぶった方の手は、激しく震えていた。
「何で、あなたなんかに……」
伊保里が庸子をぶつ。何度も、何度も。その瞳が潤み、涙がこぼれ落ち、伊保里は手を止めた。幾粒も、幾粒も、壊れたように涙を流した。
気がつくと、静かに庸子も泣いていた。顔を赤くはらせて、声もなく泣いていた。
庸子と伊保里、人の形をした柱のように立ちすくみ、2人はただ涙を流しつづけていた。
【Ⅳ】
別れはあっけないほどだった。さんざん泣いた後、真っ赤になった眼のまま、「じゃ」と、伊保里はあっさり別れの言葉を口にした。
「いつまでも付きあってられないわ、あたしはさっさと忘れてしまうことにするから」
ウソばっかりと思いながら、庸子は応えた。
「あたしは忘れません」
「忘れてしまいなさいよ、あんなズルい意気地なし。何もかもあなたのせいにして、勝手に陶酔して、絶望して、勝手に死んでしまって、莫迦よ、ワガママよ……あーもうッ!だいったい、何で10も年下のガキに、あたしがこんなこと云わなけゃいけないわけ?」
「11です」
「うるさい」
庸子を軽くにらみつけ、くしゃくしゃになった葉書を返すと、振り返りもせずに気高く去っていった。
上田からの葉書は、ボォルペンの文字が、庸子か伊保里かの涙でところどころにじんでいた。ポケットにしまうと、そこだけがほんのりと暖かく感じるのが嬉しい。でも何か貴重で、質量のあるものを手渡された感じだ。
気がつくと、あちこちの雲の切れ間から、陽の光がやわらかく降りそそいでいた。
……彼はあがいていたのだ。庸子は考える。疲れて、見えないところで傷つき、眼の前の一線を越えようとしても、何かが押しもどす、そんな力に挑んで。
でも、彼はその力に敗けた。いや、敗けたのではない。進むことをやめたのだ。彼は限界に達していた。だから敗北に逃げこんだ。
初めてのコメントで垣間見た、彼の危うさ。自らを未熟、未成熟と云い、未完の自分を満たし、いつの日か完結させることを望んでいた彼。彼にもっと力強くそれを押し返す力があったら、あたしを平然と踏みつけることができる強さがあったら、彼の物語は、もっと広々とした地平に降り立つことができたかもしれない。繊細さや優しさだけでは、人は上を目指せない。そしてそのことを、誰よりもよく知っていたのは、きっと上田自身だった。
自分の物語が、あの時彼を責めなかったことが、彼の心を傷つけたのだろうか?彼には見えていた何かが、あたしの中にあるのだろうか?自分が持っているものに、そんな価値があるかどうか、見当もつかない。あたしはただ、自分が失ったものが何だったのか、わからなかっただけだ。
――ズルいよ上田さん。庸子は小さくつぶやいた。自分の弱さ、わかってたくせに、全部あたしに押しつけて逝っちゃって。
どうすればいいのだろう?彼の失ってしまった夢のかけらをつなぎ合わせて、もう一度この世界に投影するのだろうか?いつかそんな日がくるのだろうか?……答えは出ない。でも……
庸子は歩き出す。上田斗志岐が最後に生きていたこの場所を離れ、伊保里とは逆の方向へと。
厚い雲の間からさしこむきざはしを伝って、まるで物語が降りてきたかのように、世界は淡い輝きにつつまれていた。
(了)
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