「je n’avais rien dit」(前編)
「……ひで、虎・・・君?」
ケータイの向こうから聞こえてきたのは、まぎれもなく昨夜ボクの背中に飛蹴りを喰らわせてくれやがりました、あの女――そう北森明日夢だ。
大学に行くにもまだかなり余裕のあるこの時間。枕元に置いてたケータイの着信音に、半分寝ぼけて反射的に電話をとったことを後悔しつつ、ボクは問答無用で切ろうとした。昨日の今日で、背中はまだ痛いのだ、あのヤロウ。
「切らないでッ!」
声のせっぱつまったカンジに、タオルケットにくるまったまま、動きが止まった。
「お願い、ハナシを聞いて……」
「ふざけるな、お前と話すコトなんてない。もう切る」
「聞いて」明日夢の声は弱々しく、そして苦しそうだった。「お願い、もう二度と云うコトきいてくれなくってもいいから。お願い、今日だけは……助けて」
そう云われて、これまで何度かひどい目にあっている。あいにくとその手はもう通用しないって。
ボクはよっこらせと身体をおこし、せんべい布団の上であぐらをかいた。窓の外では、鉄柵の上に横一列にならんだ雀がさえずっている、漫画のようなのほほんとした光景。バカにしやがって。
「どうせまた麻雀だろうが、朝っぱらから何やってんだ」
「違う、ホントに……助けてほしいの……」
これまで聞いたコトがない明日夢の声に、ボクは迷った。迷っている間の彼女の沈黙が、すごくせっぱ詰まった何かを、ちりちりと発しているようだった。それはひどく居心地の悪い、不安にさせる何かで、結局その沈黙に敗けた。
「……これで最期だからな」
騙されるのも、振りまわされるのも今回でおしまいって意味で、自分の甘さに心の中で悪態をつきつつ、そう云った。
「ありがと――」安堵の声がケータイの向こうからもれた。「あの、お願い……頼むから、急いで来て……」
郵便受けの裏側に貼りつけてあるスペアの鍵で入ってきてと、妙な頼みごとだった。女のくせに、こんなあからさまな場所に無用心だ。室内は静かだったが、妙にどんよりした空気だった。
北森――と呼びかけると、奥の部屋から弱々しげに応える声。
またからかおうとしてるな。靴を脱いで上がりこむと、182センチのでかい明日夢の身体が、部屋の床に突っ伏していた。ショオトパンツからのびる脚が、べらぼうに長い。ため息が出た
「……何やってんだ、お前」
「……こ、こ……し……」
顔も上げないに明日夢の声はよく聞きとれない。
「何?」
「動けない……腰……やっちゃった……」
つまんねぇ冗談――と云いかけてよく見ると、顔が正真正銘、土気色だ。
「……冗談?」
明日夢のやつ、腰を痛めたコトがあったって以前話していたのを憶い出した。
「ホント……」眼を伏せつつ応えた土気色の顔が、不意に真っ赤になった。「お願い、その……立てないの……あ、お、おし……ト、トイレ、連れてって……」
「トイレ……」
「い、い、い……急いで、もう限界……ヤバイ……」
「限界って……」
「一生のお願い……」
「ホントに立てないのか?」
明日夢の頭が、震えながらこくっと動いた。涙目になっている。どうやら本当らしい。アタマの中を、いろんな文句が乱雑に走り回った。走り回ったが、その奥の方から、呆れはてたようなため息が聞こえた。仕方ない……
でも、そう思っても、どんな風に手を出したらいいのかわからない。とりあえず、ぐにゃりとしている明日夢の脇の下に、背中から腕を差しこんで、上半身を起こしてみることにする。
「ん……」
声を押し殺して、つらそうにうめく。力が入っていないからやたら重く感じる。後ろから持ち上げるようにして上半身が浮いたところで、明日夢がじわじわと脚をまわして、膝を立てた形になった。
「これからどうすりゃいい?」
「……前……来て」
たったそれだけで疲労したみたいだ。うつむき、息を荒げながら明日夢が云った。
ボクは身体を入れ替えて、真正面から抱き合うような形になると、顔をあわせないようにして、そのまま力を入れて、明日夢とくっついたままじんわりと立ち上がった。ボクの背中にまわした手が、ものすごい力でしがみついている。重い。
揺らしちゃダメ……と耳元でしぼり出すような声でささやく。起きたままなのだろう。Tシャツの下には何もつけていないのが、手触りでわかる。身体から、かすかに汗がにおった。
「……あ、ありがと、手、かしてもらえば、後は何とか歩ける……」
自分よりも背の高い明日夢に肩をかすと、上半身を揺らさないように注意しながら、ガラスの橋を渡るようにそろそろと慎重に歩き出した。それでも喰いしばった歯から、時折うめき声がもれる。額には脂汗がうき、涙目になっている。ホントはもっと急ぎたいのだろうが、ほんの数メートルの距離を、ボクらはまるで亀の二人三脚のように進んだ。
トイレのドアを開け、ようやく便座に座らせることができた。もどかしげにショオトパンツに手をかけて、明日夢ははっと上目遣いでボクを見た。真っ赤だが、ばつの悪そうな、そしてあせった顔だった。
「も、もう大丈夫……ひとりでできるから」
あわてて個室から出ると、中ではごそごそと衣ずれの音、そしてすぐに水が流れる音がした。
「秀虎君、そばにいて」
水音にまじって中から声がしたけど、落ち着かない。オンナノコのそういう音を聞くのは、何となくマナァ違反のような気がする。結局、少し離れた床に座る。どうせすぐにまた、部屋に連れていかなければいけないだろうと思ったけど、水音が静まっても、なかなか出てこなかった。
「勘違いしないでよ、もう終わったんだから!」
中からまた明日夢の声。個室で反響して、いつもとちょっと違う、くぐもったカンジだ。
「じゃ、何で出ないんだよ」
「いや、その……座ってるのが楽で、それに……何か出にくってさぁ」
「アホ」
すっかりいつもの調子だ。何か朝からどっと疲れた。そして明日夢のやつとは冷戦中だったコトを思い出した。少し甘やかしすぎたか?
「秀虎君?」
「何だ」
そのまま黙っているから、もう一度何だよとうながすと、ちょっとためらうような気配がして、明日夢がつづけた。
「高校の時に腰、やっちゃったってコト知ってるよね?」
「ああ……」
「ずっとバレェやっててさ、全国にも行った。ベスト8までいったんだよ。で、ちょっとムリしすぎちゃってこの有様ってワケ、あははは」
「……」
「でも元々、遺伝っぽいカンジもあるみたいでね。秀虎君、信じられる?背骨のさ、間と間がほんの1ミリずれてるだけで、人間って何かの拍子でこんな満足に歩けなくなるんだよ」
その言葉につづいた明日夢の沈黙は、今度は少し長かったが、ボクはそのまま待った。
「で、さ……」
ようやくドアの向こうから声がとどいたが、そのカンジが微妙に違っているような気がした。
「う~ん、何て云えばいいのかな?つまりその……ずっと考えるんだよ。まったく、何でアタシがこんな理不尽なメにあってんだろうかって」
「何でって……?」
トイレの中で、明日夢が頬杖してる様子がうかんだ。どんな顔しながらしゃべってるんだろう?ボクはふとそう思った。
「高校入学の時、特待蹴って別の学校行ったって話、したコトあるよね?それがゴタゴタってか軋轢ってか、問題になっちゃって……そういうのって、アタシだけの問題じゃなくって、同世代から前後何代かに全部かかってくるの」
「めんどくさい世界だな」
「そう。ソコは県内では全国の常連校だったんだけど、前からコォチの指導に問題があってさ、アタシらの代にちょうどそういうのがイロイロと表に出ちゃってね、アタシを含めて同級の子が結構よそへ流れてっちゃったの。蹴ったこと事態はコレっぽっちも悪かったなんて思ってもないけどね――で、結果的にアタシたちの学校が全国に行ったワケで、なおさらねぇ……結構生々しいハナシで悪いけどさ、高校で全国レベルの競技っていったら、もうその先の大学や企業なんかがからんでくるの。全国に行った行かないで、選手としてのキャリアは天と地ほどに違ってくる」
「……」
「それともうひとつ。うん、と……コレ、秀虎君に話してよいものかどうか、その……3年になったころさ、何だ、えっと……不肖ワタクシめにも、彼氏のようなモノが一応おりまして……」
「あんだって――?」
彼氏と聞いて、妙に心が騒いだ。いや、変な意味じゃなくって、あぁ、コイツも生身のオンナなんだなぁと、すごく複雑な気分だった。制服を着たそのころの明日夢や、誰か知らないオトコと並んで立っている光景なんて想像もできなかったけど、そのくせ、そのどこの誰とも知らないオトコに見せたはずの無防備な姿を、一瞬生々しくも荒々しく感じてしまった。不覚。
「男バレェの部長だったんだけどね」妙なテンションでつづける明日夢。「うわ、やばい……恥ずかしくなった。死にそう」
あ、コイツ絶対照れてるだろと思った。
「まぁそのころは、お互い部活第一ってカンジで、隣りあったコォトで毎日顔を合わせてるワケだから、何か付き合ってるっていうか、その……仲間っていうか同士っていうか、そんな感覚の延長で、こう自然にそういう流れになっちゃってさ……」
「……」
「でも男バレェは結局県予選で敗けて、彼はそれで引退したワケ。ところがさ――秀虎君、聞いてる?」
「聞いてる」
「ところがね、ソイツ自分が引退した途端、急に彼氏ヅラしはじめてさぁ。自分が現役の時は部活優先みたいなカンジだったくせに、ヒマになったら急にかまってちゃんだよ。自分の都合を押しつけんな、おとなしく受験勉強せぇちゅうの!」
明日夢はトイレの中で興奮してきたようだ。
「コッチはそりゃもう、全部のエネルギをそそぎこんで、朝起きてから寝る瞬間まで、もうアタマの中、バレェ、バレェ、バレェ!わかる?大穴もいいトコだったウチが全国に行くワケだから、もうオトコかまってるヒマなんかないワケ、それどころじゃないっつーの、あの軟弱者が!」
「そんな奴とつきあってたんだ……」
あきれて、思わずつぶやいてしまった。個室の中で、明日夢があうっとか妙な声を出した。ばか。
「……ってワケでさ、もう急にうっとうしくなって、大げんかして、はいそれでおしまい」
あうってのは、どうやらなかったコトにして、ムリヤリ終わらせた。
「だから、北森の昔のオトコのハナシがどうしたんだよ」
ボクの質問に、明日夢のやつは応えようとしなかった。その沈黙は、何となく今までとは違った気配だったが、やがて、扉の向こう側から、ぼそぼそと聞こえてきた。
「アタシは自分がやったコト、後悔なんかしてない。周りに迷惑かけて進学したコトも、全国行ったコトも、つきあってたオトコふっちゃったコトも……その時のアタシは必死だったし、そんな風にやってくしかできなかった。その他のやりかたなんて、アタシはわかんなかった。全国でも、結局上に行けなかったってコトだって、自分たちの実力がそこまでだったって思ってる。もうあれ以上は無理だった」
淡々とつづく独り言のような明日夢の言葉。ボクは聞いてるしかなかった。
「でもさ――でもどこかで、心のどこかで、納得のいっていない自分がいるの……最期の試合で敗けたのも、アタシがキメられなかったせいだった。振りぬいた瞬間のあの時の感触は忘れない。決められたはずなのに。外すはずなんてありえなかったのに。外れたなんて……今でも信じられない……何でアタシは外してしまったんだろうって?まるで悪い魔法をかけられたみたいだった」
小さく弱々しく、すごく遠くから聞こえくるような言葉だった。
「アタシは勝ちたかった。強くなりたかった。それだけだったのに――何もかも全部つぎこんで、犠牲にしたのに、どうして何も手元にのこってないの、見返りがないのって思ってしまう。それどころか、腰にこんな爆弾かかえこんでしまって……納得がいかない……」
不意に、乾いていた明日夢の言葉が途切れた。そして、ためらうような気配の後、かすかに、ささやくようにひびわれた一言が聞こえてきた。
「ひどいよ、こんなの」
その後は、いつまで待ってもつづかなかった。声をかけるのをためらわせる沈黙が、扉の向こうから伝わってきた。
便座に座って、自分の手をじっと見つめる明日夢の姿がうかんだ。想像の中の彼女は、うつろな眼をしていた。アイツがそんな眼をしているなんて考えると、すごく嫌な気分だった。
明日夢のやつは間違っている。いや、間違っているというより、そんな風に落ちこんでもらいたくなかった。アイツがうちこんできたコトは、きっと大切コトだったと思う。ソレを失ってしまった悔しさもわかる……つもりだ。でもそんな風に、いつまでもひきずってほしくない。そんなの、あの北森明日夢には似合わない。何か勝手だけど、それが偽りのない自分の本音だった。
でもそのことをうまく伝える言葉がなかった。いや、そんな風にうじうじしてやがる明日夢にも、何かこう……腹がたった。
「ばーか」
「はぁ?」
トイレの中から、聞きなおす声がした。
「そんなコトしおらしく考えるぐらいなら、昨夜オレに蹴りいれたコトを反省しろ!今さらそんな辛気くせぇコト、云ってんじゃねぇよ。やっちまったもんはしょうがないだろうが。進学がどーの、オトコがどーの、すんだコト!みんなちゃら!ソレでもう納得しちゃえ」
「あ、アンタねぇ……もうちょっと思いやりのあるコト、云えないの?」
「うるせぇ、無理に決まってんだろ、そんなの期待してたのか?」
「……してないけどさ」
「だったら愚痴って満足しろ、とりあえず聞いてやった。やりたいコトやった、北森は後悔してない、ふられた奴がたいしたコトなかったんだし、北森が敗けたのも、相手の方が強かったからだ。お前が努力した以上に、相手もしてきたんだ。そんだけだ!お前の腰が痛いのだって、あきらめろ!」
一気に云ってしまってから、ちょっとまずかったかなと思った。いくら何でもあきらめろはないだろ、あきらめろは。アタマ悪すぎるだろ。
案の定、トイレの中の明日夢はうんともすんとも云わない。今度のは、今までで一番長い沈黙だった。
「……秀虎君なんかに話したアタシがバカでした」ようやくあきれはてたような声がした。「アホすぎる。信じられないぐらいアホすぎる。そんなんで、アタシが納得できると思った?社会に出た時、プレゼン力ないと将来ないよ」
「文句あんのか?」
「いや。ないけど、何か急にバカバカしくなっちゃった。いやぁ……ある意味、すごいわ君、あっぱれ」
そりゃどうも。
「……開けて」
「……鍵」
「かかってないよ、痛くって動けなかったんだから」
こいつは……
おそるおそるトイレのドアを開けてみると、口をとがらせて何とも云えない表情で頬杖をついてる明日夢が、たちの悪い冗談みたいに、便座に腰かけている。もちろんちゃんと着衣ずみだ。にらむような眼をしているけど、眼も鼻もほんのりと潤んで赤い。いつもの、ほんのちょっとたれ目なのが、さらに情けなさそうな顔になっている。
「へへへ、みっともないハナシをお聞かせしました」
「あほ」
「あ、それと……昨夜はゴメン、蹴ったりして」
「あのな、まずソレが原因じゃないかって思えよ。腰、絶対ソレが原因だからな、罰あたったんだ」
「……まぁ、ソレはソレ、コレはコレというコトで」
「もうちょっと反省しろ」
もう一度肩をかしてやると、今度は少し落ち着いたカンジで、それでもゆっくりと部屋にもどった。そろそろとベッドの端に座らせると、顔をゆがめながら、ゆっくりとうつぶせになった。スプリングがぎしりと音をたてた。脂汗がういた顔は、げっそりとしていた。
「ありがと、ふみちゃんたちじゃ抱えてもらうのはムリだから、頼めるの秀虎君しかいなかった……お願いついでに、もうひとつ。ソコの中に、湿布あるから、貼ってくれない」
目線で教えられた枕もとのチェストの引き出しをのぞきこむと、目薬とか鎮痛剤とかいっしょに湿布の箱が入っていた。
だらりとうつぶせになった明日夢の腰のあたりを指で押す。想像してたよりも、ずっと弾力のある感触だった。
「このあたりか?」
「もう、ちょっ……下」
枕に顔をうめている明日夢の声は聞きづらい。おそるおそる、手探りでその位置へ到達した。シャツのすそを上げると、クリィム色の背中の半分ほどが剥き出しになった。産毛がうっすらと光っている。
なるべく見ないように、明日夢の背中の下のほう、脂肪の隆起がはじまる、えっとつまりその……お尻のふくらみはじめのそのあたりに貼ってやると、うひゃっと声をあげて、明日夢の脚がぴょこんとはねた。
「病院、行かんでいいのか」
「いい。行っても、レントゲン撮られて、湿布くれるだけだもん。お金のムダ。どのみち動けないから、明日よくなってたら一応行くかもしんない」
「お前なぁ……」
「おなかすいた、朝ごはん作って。ご飯、タイマァしかけてたのに、動けないの。このままじゃ食べれないからパン焼いて、パン」
ワガママ放題だが、場合が場合だ。仕方ない。焼いたトォストを皿にのせて顔の前に置く。何か犬にエサをやってる気分だ。明日夢は行儀悪くうつぶせになったまま、もそもそと食べる。犬っていうより蛇みたいだった。
お湯をわかして、インスタントのコォヒィを淹れてもどってくると、明日夢のやつ、寝息をたてていた。いーのかお前、そんなコトで?
明日夢の寝顔を見たのは、これが二度目だっけ?左の目じりに、小さな泣きボクロがあるのに、初めて気がついた。コイツに似合わないつつましさだ。さてどうしようかと、ぼんやり考える。起きたら、またトイレとか云うのか?そう考えたら、出ていったらまずいような気がする。
立ったままコォヒィに口をつけた。部屋の中を見渡した。テェブルの上に、開いたままの参考書が置いている。中は書きこみでいっぱいだった。そういや、教員試験受けるって前に云っていた。まだ2年になったばかりなのに、コイツ一応努力してんだなぁと、ちょっと驚いた。窓の外から車の音が聞こえる。それと雀の声。自分の家にいたのと、同じヤツかなと、そんなはずもないのに、ふと考えてしまった。
ひとコマ目の時間はとっくにすぎてしまっている。ため息が出た。座りこんで、とりあえずカップを空にすることにした。
明日夢は昼過ぎまで眼をさまさなかった。その間ボクは部屋にある本を読んだり、自分もうたた寝なんぞしつつ、時間をつぶしたっていうか、何となく過ぎてく時間を眺めてた。
もっかいトイレと云う明日夢に、また肩を貸した。うめきながらだったが、それでも今度は朝にくらべて、かなり脚に力が入っている。時間をかけて往復し、もう一度ベッドに横たえさせた。
「さんきゅ、ずいぶんよくなった」
今度は膝をかかえこむように横向きになって明日夢は、珍しくしおらしい態度でそう云った。
「あ~あ、お腹すいた~、腰痛い。秀虎君ご飯作って。それから今夜は泊まってって、トイレ行く時、困るから」
照れ隠しのように笑いながら、いつもみたいな軽口。だけどやっぱり、眼に力がない。
「調子にのんな」
いつものようにそう応えたボクの中で、不意にさっき明日夢がもらしたひとことがよみがえった。
(ひどいよ、そんなの)
初めて聞いた、彼女のひびわれた弱々しい声。ひどく落ち着かない気分にさせられる声だった。きっとそのひとことが、ボクの中の何かを狂わせたんだろう。きっとそうだ、そうに決まっている。
まったく信じられないことだった。気がつかないうちに、ほんのちょっぴりも悩裏になかったその人物の名前が、自分の口からもれていた。
「幣原蓑之助は――」
(つづく)
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