【Ⅺ】
冬に離れたアンドレードは、すでに夏に近い。風がぬけていく王宮の回廊も、歩めばじんわりと汗ばむほどの陽気だ。イオニア特有の湿った夏がはじまろうとしていた。
回廊のかなたに偶然イオの宰相ベルンをみとめて、軽甲姿の赤毛の代騎士ゲルダの脚は止まった。
「ただ今もどりました」
一礼をする。戦塵にみがかれた風貌であった。ベルンは眼を細めつつ云った。
「久方ぶりだ。女っぷりがあがったのう」
ゲルダは苦笑した。キーブル付近で、モルはいまだユリウス軍と対峙をつづけている。
「キーブル方面は激戦だったそうだな。それにずいぶんと危ない橋を渡ったようだ」
「小勢で大軍を打ち破るには、あのような奇策でも用いらねばなりませんでした。右腕を喰わせて、左腕でしとめたようなものです。ロイズの騎士団も多くの兵を失いました。何よりラーソン殿が討ち死にされました」
「奴はモルの同期じゃよ」
ゲルダは眉を上げた。彼女の記憶の中で、とりでへの残存を命じたモルにも、死兵となるべく居残ったラーソンにも、何ら感傷のにおいはなかった。一方は淡々と命じ、もう一方は粛々とうけたまわった。そして500の兵士を率いて、ラーソンは討死をした。
「ユリウス殿下の叛乱など、簡単に操ることができるなどと思っていた重臣どもの顔が、一時は青くなってな」ベルンの言葉には、痛烈な皮肉がこめられていた。「まったく“夜道で乗った驢馬が虎だった”のたとえどおりだ。いくさを好き勝手に動かせるなど、思い上がりもはなはだしい」
「宰相殿にうかがいたいが、なぜブレア将軍をキーブルから動かされたのですか?主戦場はあのあたり一帯ということはわかりきったことです。他方面への転戦は理解できません。おかげでロイズ騎士団が、ユリウス殿下の軍を一手に引き受けるかたちとなってしまいました」
詰問に近い口調だった。ベルンは彼女のその問を予想していたかのように、表情も変えずに応えた。
「土豪たちの動きがにぶかった。うかつに召集をかけて万が一があってはならぬので、中央軍を中心とした編成に頼らざるをえなかったのだ」
「まさか……」
ゲルダが愕然とした。
「事実だ。この擾乱について、ユリウス殿下よりの調略の手がのびていた諸公は少なくない。くさい動きをした者も2、3ではすまぬし、実際のところ証言もえている」
「しかし……」とまどったようにゲルダ。「それだけの恩賞の保障、ユリウス殿下ができるものでしょうか?諸公もばかではありませぬ。見返りがなければ動かぬはずです」
「空手形もよいところだ……」だが、とベルンはつづける。「たしかに妙だ。たとえ見返りを保障していても、それだけの諸公を動かすとなれば、生半可なことではない。ユリウス殿下に賭け馬としての価値が、はたしてあるのか……」
憮然と凝視するゲルダに、ベルンは云いにくそうに顔をしかめた。
「腹立ちついでにすまんな……モルの指揮について、王都で批判が出ておる。みすみすとりでを明け渡して、戦線を後退させた。もう少しでアンドレードに迫られるところだった……とな」
「何――!」ゲルダの赤毛が一瞬、総気立ったほどの怒気であった。「どこの脳なしどもが、そのようなふざけたことを!」
「そう怒るな」
「無理です!」猛りくるっていた。「たった2千の兵で5倍以上のカスバル軍と渡り合って、しかも半歩たりとも東へは進ませなかったのですぞ。ユリウス殿下の本隊が動けなかったおかげで、各地の叛軍は連携することができずに個別に討ち破られたのではないですか!」
「重臣どもには、はなばなしく降参させたり、城をぬいたり――そういったことが武功に見えるのよ。戦況の要を護りぬくことの重要さは理解できぬ」
「くそっ!戦場知らずの三百代言どもが!」
王宮内というのに、無作法にも床を蹴りつけ、ゲルダは罵った。戦況のもっとも苦しい時に同じ釜の飯を喰った仲の者の決死の想いが、王宮でのうのうとしている重臣どもから軽んぜられていると聞いただけで、身体中の血が沸騰しそうだった。
「これではラーソン殿はうかばれぬ……」
悔しそうにつぶやくゲルダから眼をそらし、ベルンは老いた顔を回廊の外に向けた。彼方はキーブル、そしてエウラリーアの方向であり、擾乱いまだ定まらぬ。城の尖塔にひるがえるイオ王家の幡が眼に入った。
1本の玉杖にからみつき、互いに向きあう2匹の蛇。
世人は想う。イオの王家は、この幡のごとくに互いに食みあう宿命にあるのだと。
「ゲルダ様、団長がお呼びです」
娘子軍の若い平団員が、後宮の武者だまりで待つゲルダをまねいた。うなずき入宮するゲルダに、彼女は笑いをこらえるように一礼し従う。
やれやれと思う。このこそばゆい感覚。自分はこの砂糖細工のような王宮にもどってきたのだと、つくづく感じる。
団長の控室へ通されると、そこには娘氏軍の団長をつとめるエイシャが執務机に座していた。歳のころは50ほどであろうか。恰幅がよく、淡い金髪はなかば白いものの、鮮やかな顔色はそこらの小娘などに敗けないほどである。彼女の下、ゲルダは副団長の地位にある。後宮警護とはいえ近衛の団である。
簡潔に帰宮の報告をし、長い時間をかけて戦況を詳細に語る。現状を知るゲルダの言葉に千金の価値があることは、エイシャはよくわかっている。
そしてもうひとつ神妙な顔をして頭を下げねばならぬことがあった。戦場へ出たのは彼女のわがままである。
「ご迷惑をおかけしました」
「まったくだ。貴女がいなくなって、他の者の当直が無茶苦茶だったのだぞ」
「……申し訳ないと思っております」
おだやかな笑みをうかべているが、油断はできない。ここは素直に頭を下げておくことにする。エイシャの笑みが、微妙に変化した。
「ところで貴女の見立てで、モル公はどうだった?」
「……騎士、将帥としての度量、申し分ございません」妙なことを訊くものだと思いつつ、応える。「あの方の率いる一団の士気は高く、王弟軍を寄せ付けもしませんでした。いずれイオを背負って立つお方であろうかと思います」
「あぁ、そうではない」苦笑しつつ頭を振る。「あの男盛りのそばにいて、貴女は何も感じなかったのかと訊いておるのだ」
「……は?」
「あぁ、貴女ももう20代の半ば、年増よ。いつまでも空閨を護っているつもり?もうひと花ふた花、咲かせるつもりぐらいはあるでしょ?」
口調がいつの間にか団長のそれではなくなっていた。眼が好奇心に輝いていた。
「え、あの……」
めまいがした。悪い虫がおきていることに、遅まきながら気がついた。この団長、部下や王宮の王族たちからの信任はあついのだが、外見に似合わずとんでもない金棒引きなのである。だが堅苦しい性分と自分を割り切っているゲルダにとって、何より苦手なことである。控えの間でうわさ話に興じる同輩たちを見て、剣の素振りのひとつでもすればよいのにと考えるような女である。
我知らず、わずかに後ずさっていた。
「ひと花も、ふ、ふた花もございません。もはやそのつもりなど、毛頭ございません」
早口で応えたが、うかつにもしっかりと舌をかんでしまった。
「ずいぶんとむきになって否定するわね」
「シュペールに誓って、何もございません」
「あら、それは残念」額に手をあて、心底残念そうだった。「貴女とモル公、よくお似合いよ。貴女の見栄え、悪くはないし、幸い家柄も近い。互いに武芸に通じているから話も合うのではないかしら。団員の間では賭けにもなっていたのよ」
「……あの、団長殿は……?」
おそるおそる訊いてみた。先刻の平団員の笑みの意味がわかった。
「あら、それはもちろん……」満面の笑み。一体どちらだ。「……で、実際のところ、どうだった?何もなかったと云うけど、本当に?それらしい雰囲気ぐらいはあったんじゃない、大丈夫よ、ここだけの話にしておくから」
滔滔とまくしたてるエイシャに、ゲルダは心の中で悲鳴をあげていた。王弟軍1万の大軍を眼にしても、たじろなかったこの女が……である。
後宮の庭園で一足早い淡い青紫のランティーヌをつんでいた少女が、なぜかげんなりした顔で近づいてくる赤毛の女騎士の姿をみとめた途端、小さな腕の中にかかえていた艶やかな花たちを放り出して駆け寄った。
「ゲルダ!」
名を呼ばれ、今までの表情を一変させると、駆けよった少女を無遠慮に抱きとめ、そのまま抱え上げた。
明るい栗色の髪と、暗い同色の瞳。イオの王マリウスの長女リゼーヌ。ようやく6歳になったばかりである。王宮の宝のようなうるわしい少女であった。ハデスにとっては従姉妹にあたる。
「ゲルダ、いくさはどうだった?悪いやつのくびを斬った?」
「おまかせください。姫様の大事なゲルダは、一番強いオルドロスという騎士とやりあっても、少しもひけをとりませんでしたよ」
瞳から好奇心がこぼれんばかりにして訊ねる少女に、ゲルダも満面の笑みで応えたが、リゼーヌの表情が不意にかげったのに気がついた。
「いかがされました?」
ゲルダが王女を降ろすと、不安そうに女剣士を見上げる少女の、憂いをたたえた瞳であった。
「くびを斬ったなんて不吉なこと云ってごめんなさい……ゲルダ、叔父様と争っているの?叔父様たちはどうなるの?ねぇ侍女たちがうわさしているの、叔父様やハデス従兄様は処刑されてしまうって」
「姫様……大丈夫ですよ。姫様が心配されることなど、何もありません」
ゲルダは笑ってみせた。しかし自分でもわかるぎこちなさだ。それでもリゼーヌは、思いつめたような表情をやわらげた。
「ゲルダ、わたしに剣を教えてね」
「そのようなものは必要ございません。何かあればゲルダがお護りいたします」
などとしかつめらしく断るものの、この少女には大甘なゲルダは、すきをみては手ほどきほしてくれる。実際、この少女の剣の筋はなかなかのものであり、後日ばかにできないほど手練となる。その筋はまるでお話にならなかったハデスより、よほどものになったものである。
(つづく)
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