【ⅩⅢ】
「はい、失礼失礼」
なまりの強い野太い声がした。棹のようにひょろ長い体躯だが、一筋縄ではいきそうにないひげ面のその男は、小舟の船頭であった。重たげな剣を引っさげ、その後ろでは舟人夫どもが弓に矢をつがえている。
ふとハデスは、舟が止まっていることに気がついた。場所は周囲が高い崖にかこまれた、ちょっとした淵のようであり、投錨されていた。いつの間にこのような場所へ入りこんだのであろうか?
ミルズが振り返り剣を構えたが、その所作は緩慢で力がなかった。腹に手をあてて、低くうめく。ハデスの胃もにぶく痛む。
「……う、裏切りでございます、殿下」
裏切りと云われても、ハデスの混乱はつづく。そもそも彼を拉致したのはミルズたちではないか。しかし今自分たちに鏃の先をむけている連中が、自分の味方だとはとうてい思えない。
「裏切りとは人聞きの悪ぃ。おめぇらこそ人目をはばかるまねをしてるだろう」
長身の船頭が歯を剥きだして笑う。かがみ口から外を見ると、甲板上にワルカバンともうひとりが倒れふしている。ふたりの身体の下に赤黒い染みができており、ぴくりとも動かない。人夫のひとりが、彼らのふところをまさぐっていた。ワルカバンほどの者がやられたのかと、恐怖にかられた。
「毒でございます」心中を察したようにミルズ。「奴らの酒に入っていたようです」
「ツキヨタケの粉だ――飲めば腹痛でひとたまりもねぇよ」
「おのれ、毒ごときで私の剣がにぶると思ったか!」背中にハデスをかばいつつ、ミルズは憤怒に叫ぶ。「貴様ら鼠賊風情、ひとりのこらず斬りふせてくれるわ!」
云い終わらぬうちに、ミルズの胸に短弓の矢が弦音も高く突きたった。うめき声をあげ、ハデスによりかかるようにしてその身体が無惨に崩れおちる。
「ミルズ!」
「笑わせるんじゃねぇよ、若造が!」船頭は大見得をきる。「ここをどこだと思ってんだ、水の上は俺様の縄張りよ!にごり淵のユラニウス様と云やぁ、水賊仲間でもちょいとした顔だぜぇ!」
ユラニウスと名乗った水賊は顎で指示をする。後方にひかえていた人夫どもが、ワルカバンたちのむくろに用意の重石をくくりつけて、無造作に河へ投げこんでいく。
「や、やめろ!」
手首をしばられたままミルズのむくろにとりつくハデスを引き剥がしながら、人夫があざわらう。
「へへ、もう死んでますよ。このあたりはにごり淵と云ってよ、一度沈んでしまったら骨になっても浮かんじゃこねぇ、あきらめなさいって」
「おのれ貴様ら!呪われろ!フブルの黒い炎で生きながら焼かれつづけろ!」
暴れるハデスの身体をユラニウスは軽々と持ち上げると、もう一度小屋の中へ放りこんだ。
「殿下などと呼ばれて、まぁどこのお坊ちゃんか知らねぇがよ、教えてやろうか?ポウ河はわけありの連中が人目をしのんで下ることから“罪人川”とも呼ばれている。そして……わっしらみたいにそれを狙う水賊もおるんですわ。だからまたの名を“追いはぎ川”とも云う」
ハデスはひげ面の水賊を、憎悪に満ちた眼でにらみつけるが、ふてぶてしい面がまえはびくともしない。
「私をどうするつもりだ……?」
「あのお兄さん方は面倒だから眠ってもらったけどな。お坊ちゃん、あんたは殺さねぇよ。大事な商品だ」ユラニウスはくつくつと、心底おかしそうに笑う。「なぁに、あと1日も辛抱すりゃロスの港に着く。そこであんたは奴隷として売っぱらわれるんだよ。楽しみにしてな」
* * *
枢軸の世紀――そのはじまりであった年の、最期の月であった。
その地位についてまだふた月にもならない新帝は、百曜宮内の馬場にあった。40すぎの精気あふれる壮年の新帝は、馬を駆ることを何より好み、皇孫時代もしばしば郊外への遠乗りを楽しんだものであった。即位してからは眼もまわらんばかりの煩雑な公務に日々追いたてられ、厩舎に近づくことすらかなわなかったが、ここ数日はようやく余裕が生まれ、久方ぶりにしばし愛馬にまたがる時をえた。
たくましい漆黒の愛馬は巧みな乗り手の手綱に応え、空を往くがごとき脚であった。地を駆ける振動、風きる頬の冷たさは、ユスティアヌス帝のなまりがちな身体をひきしめてくれる。
広大な馬場をひとしきりせめると、近習や宦官たちがひかえる一隅へと愛馬をゆるやかな並脚ですすめた。
「久方ぶりだぞ、毎日大仰な儀礼ばかりで身体がなまってしまうわ」
一同を見下ろしつつ、磊落に笑う。汗で漆黒に輝く愛馬の首筋を気分よさそうになでさする。即位して間もなく、皇帝としての地位の裏に、泥のようによどんでいる本当に厄介な陋習とはまだ面つきあわせておらず、その日は心地よい疲れがあった。
見事なお腕前にございますと、近習たちは口々に誉めそやす。無論お追従だが、実際ユスティアヌスの技量は悪くない。しかし即位してからは周りにいるのは、それまで以上にこのような連中ばかりであるから、張り合いがない。ユスティアヌスは肩すかしをくわされたように、鼻をならした。
この日、千貌の運命神パーンは新帝にどの表情を見せたのであろうか?それとも彼のもとを訪れたのは、神々ですらもてあます不和不吉をつかさどるカラカラ神の使者であったか……それは誰にもわかりえない、神々の世界の因果律であろう。
すべては季節はずれの虻であった。なぜこのような時期に飛んでいたのかとても信じられぬことだが、それはその日、確かにそこにあった。まるで何かの呪いのごとくに。
翅音は馬のいななきに消され、誰の耳にもとどかなかった。力なくよたよたと漂ったそれは、ひとときの休息場所としたのだろうか、新帝の愛馬の耳にとりつくと、もぞもぞとその奥へもぐりこんでいき、あろうことかその針でひと刺ししたのだった。
いかなる名馬でもこれはたまらない。甲高くいななき、後脚で棒立ちになり、前脚が宙で激しくもがく。間の悪いことに、鞍上の新帝は馬の首筋をなでようと片手を手綱から離していた。
「ああッ!」
周囲の者が声をあげる間に、ユスティアヌスのたくましい身体は、あっけなく鞍から振り落とされ、下草が丁寧に切りそろえられた地面に激突した。背が軽くなった馬は、耳の痛みに耐えかねて激しく首をふり飛びはねて暴れまわる。その蹄が地面にたおれたユスティアヌスの胸を、藁束のごとくに踏みつけた。あばらの折れる音を皆耳にした。
「へ、陛下ッ!」
暴れつつ馬は走り去り、近習たちがあわてて駆けより、誰もが言葉を失った。横たわるユスティアヌスの胸には、こぶしが入るぐらいの深く大きな陥没があり、頸はおよそありえない角度でねじ曲がっていた。あおむけに地に横たわり、一同を見上げるユスティアヌスの眼には、すでに生者としての光はなかった……
* * *
80に近い老帝が崩御し、巨大な老いた神獣に騎乗するのは、この壮年の新帝のはずであった。象徴される新進さを帝国の行く末に重ねあわせ、安寧を疑う者は少なかった。
ゆえにユスティアヌス4世の崩御は、突然と呼ぶにもあまりに衝撃であった。黒曜暦901年、この年を境として帝国をとりまく環境は一変していくことになるのだが、無論それは誰にも察しえることではない。
その遠因となったのが、ただ1匹の虫けらにすぎないというのは、おそるべき皮肉であろう。まさしく“タラでの蝶のはばたきが、ウォリアでの嵐となる”との格言どおりである。
ユスティアヌス帝の死についてはあまりに急であったために、これまでに帝国内で数限りなくおこなわれてきた暗殺を誰もが疑い、いつになっても黒い噂は消え去ることはなかった。しかしこの件については、実にまったくもって皮肉なことであったが、誰の手も決して黒くはない。あえて云えば、人ならぬ何者かの手が、限りなく黒いだけである。
(了)
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