【Ⅰ】
「ネロス!」
少年の声が、大使館内の回廊にこだまする。
暑気はすぎ、秋も深まり、先日先帝の納骨が終わり、いよいよ新帝ユスティアヌスの戴冠は近づいている。大使館も祝賀の準備のために、ここ数日ほどからざわついた雰囲気となっている。いや、ざわついているのはイオの大使館だけではない。ホント中が華やいだ興奮の中にある。
夜はまだ浅いが、そこかしこに灯された灯りで館内にも庭園にも充分に眼がいきとどく。
「ネロス、どこだ!何をしている!」
その声に、庭園の東屋の影で人影が動いた。築山に腰をおろしている下働きの下女が、膝にのせたネロスの耳元へささやきかける。
「ま、殿下がお呼びですよ、従者様」
「何、ほうっておけばよいさ」
眼を閉じたまま、面倒くさそうにネロスは応える。そのたくましい上半身には肌着が軽くかかっているのみである。
一方彼に膝を貸している下女の身なりも、しどけなく着崩れた感がある。淡い栗毛の、特に美女というわけではないが、男好きのする肉感的な女である。20歳前後の歳若にもかかわらず、どこか世慣れた感じがする。ネロスが彼女とつい今しがたまで何をしていたのか、口にするのも野暮であろう。
すったもんだの末、結局この元傭兵は、公使であるハデスの従者という形で、いつの間にか館内に居すわることなった。だがやはり館内の兵士などとくらべてすら、どこか異なる雰囲気をまとい、そこだけにまるで違う香りの風が吹きぬけているようであった。
館内の書記や役人たちはこの得体の知れない男と、どのように接してよいかわかりかねるように、不用意に近づくでもなく、かといってまるっきり無視を決めこむわけでもなく、ある程度の距離と節度を保っていた。その反面、意外に人好きのする質であり、下女や下働きの男たちからは妙な人気があった。料理人と気安くなり、厨房から酒やつまみをちょろまかすやり口などは、実にどうしてずうずうしくも手馴れたものである。
「王子の手や脚や首はついているか?」
笑いながら、ネロスは訊ねた。
「は?はい、もちろんです」
「ならば剣やら槍やら持った連中に囲まれて、べそをかいちゃいないか?」
「いません」
「うん結構、ならば問題なし」
そう云いつつ、不精にも膝枕されたままネロスの大きな掌が彼女の肌着のあわせの間にもぐりこみ、凝脂にみちた豊かな胸のふくらみをもみしだきはじめた。
「……ちょっと、もうネロス様」
「気にするな」
「あ、でも……」
「気にするな、気にするな」
「何が気にするなだッ!」
不意に耳元で怒声があがり、ネロスは眼を開けた。眼前には怒気を噴出している少年が、腰に手をあてて屹立している。
「こりゃどうも、殿下。よくここがおわかりで」
慌てもせずに、むくりと上半身を起こした。
「当たり前だ!館の女に手を出すなと何度云ったらわかるのだ!」
下女は身をすくませ、いそいそと崩れた裾を整える。
「そりゃ無理というものだ。近くによい女がいれば、くどき文句のひとつも自然と出ようというもの」
「あら」
下女はくすりと笑う。
「私の従者がこのようなまねをして申し訳ないと思うが、お前もわきまえてくれ」
渋面で今度は下女に云う。
「あら公使様、あたしはまったくかまいませんわ」
始末におえないとでも云いたげにハデスは片手を額にあてた。気苦労の多い少年の仕草に、下女はおかしげに口元をおさえるとすばやく立ち上がり、ハデスには一礼を、ネロスには意味ありげな流し目をくれて、その場を去っていった。
「ネロス、お主がきてから館内の風紀は乱れる一方だ」
怒りの矛先がにぶったハデスは、ぼやくようにそう云った。ネロスは上着を整えると立ち上がる。
「面目ない。しかしあまり退屈なものでして」
素性のあやしげなネロスであったが、それが女たちの好奇心を刺激するのであろうか、意外にその方面での交流はお盛んである。一体マールは何を考えてこのような男を自分のそばに置くように手配したのか、ハデスは理解に苦しむ。
「だから私が云ったとおりだ。別に危険などない。本当に役にたつのかお前は?」
「抜かれない剣が名剣だと云うではないですか。ですがまぁ何もしないのも忍びないから、せめて館の女たちに気晴らしをさせてやろうと思いましてね」
「お前はッ!」
思わず怒声をあげたハデスであったが、当の剣士の方は笑いをかみころしていた。
「……で、どうされました?」
自分の怒気を軽くいなしたこの男をハデスはしばしにらみつけていたが、やがていまいましげに応えた。
「……本国から通知があった。新帝ご即位の祝賀の件だが、大使と私とがその任を仰せつかった」
「殿下が?本国から改めて勅使などは?」
意外そうにネロスは首をかしげた。代々の大使の家柄であるボルヘスと、公使を務める王族であるハデスとが勅使であれば、格としてはまるで申し分ない。だが……
「来ない」苦虫をかみつぶしたような表情で、そう吐きすてた。「本国ではいまだに脚の引っぱりあいだ。新帝の即位など後回しなのだろう」
「そりゃひょっとして……?」
「……近いということだろう、おそらく」
「マール殿は?」
「はっきりとはわからん。巻きこまれているのか……」
悩ましげに眉をひそめる。帰国以来、マールからの便りはない。王子自身が情報網を持っているわけではない。本国の詳細がつかめずに、苛立ちと不安は大きくなるばかりだ。
「ふん……」ネロスは黒い無精髭の頬をなでつつ「今さらなんですが殿下、マール殿の忠告を忘れてはいないでしょうな」
「……安心しろ、私は父が嫌いだ」
吐きすてるように、少年が云った。剣士は顔の半分を使って、器用にいぶかしげな表情を作ってみせた。宵闇が少しずつ濃くなってきて、少年の表情がうかがいにくくなった。それはネロスもまた同様だった。
「訊いちゃあ、まずいですかね?」
「かまわない。別に隠すことでもないし、誰でも知っていることだ」
実を云えば、ネロスはそのあたりの内情も耳にしている。ちょっとした火遊びの終わった後、男の腕の中でするたわいもないうわさ話を、館に勤める女たちがどれほど好んでいるか、ハデスなどにはまだ見当もつかないだろう。
「あの人は……父はその器量もないくせに、王と地位を争ってきた。すべてはそこに起因する」
「……」
「私は人質のようなものだ。王である伯父上は父に対するいやがらせから、私をこの地位につけた。ホントの公使などお飾りだ。王族が務めるのは珍しいことではないからな。あの父のせいで、哀れ私は寄る辺のない身でここホントへと流されたのだよ……父も伯父上もいい加減にしてもらいたいものだ」
最期は妙に自虐的なもの云いとなった。確かにここ大使館では王派の者がほとんどであり、王弟の子であるハデスは白い眼で……というほどではないにしろ、よそよそしい視線が常に彼にからみついている。
「なぜ殿下の両親は……」敬称など用いずに、ハデスの親にして王族のことを口にする。「あなたのことを厭うのだ……何か理由があるのか……?」
「知らん。あの人たちが何を考えているのか知ったことか。父は羊の背肉のように愚鈍な男で、母は……ネロス、お前は私の母に会ったことはないだろう?おぞましい……魔女のような女だぞ」
男は往々にして年ごろには反抗心を持つものであるが、歳若い王子の親への憤りは若さゆえの……と評するには、いささか毒気が強すぎるように感じられた。
(つづく)
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