賢帝エリア・アエリウスの崩御は、その旬日後に公表された。
死因は老衰である。冬の危篤が一時小康を得ておりながらの死ではあったが、高齢であったゆえ誰も疑問をさしはさむ者はいなかった。侍医たちの中には、死貌の凄惨さにかすかに疑念をいだいた者もいた模様ではあったが、無論表ざたになることはない。
かくして香都は100日の喪に入る。屋敷々々や神殿には喪章が飾られ、慣例として歌舞音曲はひかえられる。都全体がなりをひそめ、帝の死を悼む。
次帝の即位までの執政は、20名余で構成される星海の間の参与たちにより執りおこなわれる。
後継としてはユスティアヌス皇孫がすでに確立されていた。エリア帝の次男の長子であり、すでに40も過ぎ、人柄も素養も申し分なかった。生前から異を唱える声がなくもなかったが、数十年にわたる治世の最晩期を、賢帝は後継問題についやしてきており、その決定は磐石であった。十王家や有力諸公にも異論はない。
弱体化していく帝国の帝として、エリア・アエリウスはひと時の安定をもたらしたと云えるかもしれない。そして賢帝につづいて、ユスティアヌスもまた長き治世であろうと推測される……
【ヌアール都トリノ ファロン外苑】
「賢帝が崩御された」
上等なマーシア葉の茶盃をかたむけつつ、その城の主は独語するかのように云った。見事な白髭が胸元まで伸びた老爺である。髪も眉もみな白く、身にまとっているものも白い法服であるために神官のように見える。眼まで顔中に広がる皺に隠されているようであったが、その鋭さは高い鼻と相まってまるで鷹のようであり、あるいは冒しがたい巌のようであった。
「御歳、78であられたとか」
庭園にしつらえられた東屋の卓の正面に座しているもうひとりが応える。いくらかは若いが、こちらの髪もすっかり白くなっている。髭はなく、皺はあるものの肌はなめした皮にように張りがあった。座しても身体の中心に鋼の芯が貫いているかのような、老人とは思えぬたたずまいがあり、眼光はまた別の鋭さを持っていた。うって変わって黒で統一された装いである。
「私より4つも若い。若すぎることはない。私もそろそろ考えておかねばならぬな」
白い老爺が苦笑した。黒い老爺も苦笑で返しただけだった。
両者の間にはさほど言葉はいらぬようである。しばし茶盃をかたむけつつ、庭園を眺望する。香都よりも遅い春の終わりであり、まさしく新緑は萌えていた。
東方の強国ヌアールのバルトシェロール王と、その騎士クマラであった。クマラは剣聖のふたつ名で呼ばれて久しい。長い付き合いの騎士とふたりきりで、王の口調も自然とくだけたものになっていた。
「弔問をたてねばならぬな……それに新帝の即位には祝賀も」
「即位の祝賀には私も参りたいと考えておりますが、許可いただけますか?」
「ほう……珍しくお主が王城にきたかと思えば?」眉を上げてしばし思案する。「なるほど……ひょっとして、マラキアン殿との……?」
「は……」夢をみるかのごとく「おそらく此度で最期となるでしょう」
「止めるわけにはいくまいな」
「申し訳ございません」
「ふむ……剣士としての生き方はむずかしいものだな……約束せよ、生きて帰って参れ」
「……はい」
その微笑みは何か透徹したものがあり、城の主はしばし瞑目する。
「そのことにつきまして、もうひとつ……」とクマラはやや改まって「実は殿下が同行を希望しておられます」
「何?」王は柄にもなく狼狽した声をあげた。「あ奴がか?」
「殿下の外聞を広めるにはよい機会かと。私も弟子のひとりなりとも連れて行きとうございます」
「む……」
王は白眉をひそめた。その様子にクマラは苦笑する。
「陛下は殿下のお話になれば、いつも気まずげになられる」
「私は一度失敗をしている。こればかりは、どうにもうまくいかん。恥ずかしいかぎりだ」
「何を申される。陛下が心血をそそいでお育てあそばされたのです。万が一もございますまい」
「まだまだ未熟よ。しかしあ奴……お主にまかせたはよいが剣術ばかり。まったく、あれでは先が思いやられるぞ」
いささか不満げに王は云った。
クマラは、老いた王の懸念の所以を知っている。かつて実子が兄弟同士で相争い、ついに苦渋の選択をしたことは、今でも王の心に重い枷となっている。自分は後継を育てることに失敗したと考えているのだ。
「殿下はいつまでも若輩ではございませんぞ。この冬にカイネウスの王位を簒奪したダゴン王も、殿下と同世代でございます」
さとすようなクマラの言葉に王はしばし沈思するが、やがて口を開く。
「……よかろう。見聞を広めるよい機会だ。これからヌアールを背負って立つ者が、香都の風さえあたったことがないようでは、確かにどうしようもない」
「かしこまりました」
「しかしホントか……私も一度は眼にしたかったがこの歳だ。もはやかなわぬであろうな……いずれにせよ偉大な皇帝が逝かれたか……」
王はそう云うと静かに茶盃に口をつけ、庭園の先の新緑が萌える山々に眼を向けた。
【カイネウス公領オルニア バンドン城】
「早すぎる、小康状態ではなかったのか……?」
不機嫌そうにそう云ったのは禿頭の王である。腰布一枚で、王城にしつらえられた蒸し風呂の中であった。夏のおとずれが遅いカイネウスでも、もはや初夏である。身体中は玉のような汗が吹きだしている。
対面しているのはナボコフである。相変わらず生真面目に浴室内に報告に来た。
「今の時点で帝国との煩雑な外交は避けたいが、これまでのような関係が破綻するのはまずいな。油断をしているとビルドが隙をうかがってくるぞ」
ダゴンは眉をひそめ、眼を閉じた。
王位を奪ってしみじみと感じたのは、カイネウスに人材が少ないということである。軍事においてはロダンなどの優将に負うところが大きく、ナボコフやサダナを早く登用したいが、まだ実績や貫目が足らない。内政面ではやはり土豪の影響が強く、これも一筋縄ではいかぬ。
もっとも懸念されるのは外交である。そもそも現在のカイネウスの立場は、綱渡りをするような外交術の上に成り立っている。
ゆえに彼の内乱は、賢帝の健康状態を見据えながらのものであった。賢帝の小康により、当初予定よりもずいぶん余裕のある抗争をおこなえたが、その死により事態はどう変わるかわからぬ危うさがある。しかも外交に実績がある者は、先王の影響下にある者が多い。これをダゴン自身の政権へ取りこんでいかねばならぬ。
自らが引きおこした擾乱により、命を落としたり亡命したり、また殺さざるをえなかった何名かを憶い出す。やむをえなかったと思うが、それでも損失であった。今はとにかく国内の鎮撫に総力をつぎこまねばならぬ。
「実は、賢帝の死に顔が異様であったとの話もあります。急に容態が悪化したとのことです。夕刻まではまるで兆しがなかったようですが」
「……まさか毒か?」
「さて、こればかりは……?」
さすがにナボコフも首をひねる。
「……ありえんな」ダゴンはしばし考えた後、そうつぶやいた。「帝国内部では賢帝の逝去は、すでにおりこみずみの事項だ。ユスティアヌスの後継は十王家や四大公からも指示を得ている。どこにも損はない話だからな……むしろ妙な死に方をしてもらった方が、後継問題にまぎれがおこりかねない。そのような莫迦なまねをする者がいるとは思えないな。だとしたらやはり自然死と考えるのが妥当か……しかしいまひとつ釈然とせぬな……」
【ビルド公領カント バルゼー城】
城内の広大な書庫は、灯明にほの暗かった。多忙な政務の終えた夕刻、わずかな時でもひとりでこの書庫にこもることは、ビルド公イヴァーンにとって数少ない愉しみである。その夜も、書架の前で書籍の背表紙に眼を走らせていた。
ビルド公の長顎などと陰で揶揄されている、顎がいかつく張り、そして長く前にしゃくれた風貌は独特のものである。歳のころは40すぎ。黒の書生服をまとい、見ようによっては愛嬌がある。世人はその気安い外見から書斎派などと呼ぶ者もいるが、無論そのような単純でわかりやすい評で彼を理解することはできないだろう。陽性と陰性が複雑に融合しているかのような人物であった。
「この機をとらえて、カイネウスをどうにかできぬか?」
ほとんど冗談にしか聞こえぬ調子で、イヴァーンは云う。
書斎机の脇にひかえているのは、雲をつかんばかりの巨漢であった。赤銅の顔色、竜のように炯々たる眼光、そして豊かな漆黒の美髯がへそのあたりにまで伸びる。見ているだけで頭を垂れたくなるような風貌であり、平服姿の時でさえ重厚な甲冑をまとっているかのような威風であった。
“美髯公”のふたつ名を持つ、ビルドの騎士クロイドンである。
「むずかしいですな。賢帝陛下のご逝去により、帝国内部での方針が大きく変わるとは考えにくいでしょう。本腰を入れてカイネウスを相手にするのであれば、少々面倒な工作が必要だと思われます」
クロイドンの応えは、風貌にふさわしく太かった。
「内政が安定しておらぬ今のうちに、たたいておきたいものだが……かつてのように周辺諸国で封じこめることはできぬか」
「レマンと協定をむすんでおりますゆえ、西方については懸念がありますまい。クロシアが遠征してくる可能性はございません。きても共闘は不可能です」
かつてカイネウス建国時に共同の戦線を張ったクロシアとは、その後関係が悪化している。もともとイーステジアの四大公家内でも、両雄がビルドとクロシアである。安易に並び立つ道理はない。
「ならばレマンとの講和に手を突っこんでみるか。即効はないが、とりあえずは政情不安なままでいてもらいたいものだ」
「は……」
イヴァーンは書架から何冊かの書籍を選ぶと、書斎机までもどる。
「しかし、当面は我がビルドが一国で矢面に立たねばならぬか。あのはげの王様きどりが北に陣取っているかぎり、安心して半島の運営に手を出せぬ。損な話だ」
「そのようなこと、ウォルスにはうかつにおもらしになさいますな。あの猪武者め、手勢のみで飛び出していきかねませんぞ」黒髭の将軍は冗談めかしていさめる。「我らビルドの伸張を好ましく思わぬのは、レマンもカイネウスも同様でございます」
「ふん、どこもかしこも。こちらの手は握ってくるかと思えば、あちらの手は殴りつけてくる。抜け目がない、まったく抜け目がない」
書斎机に座して眼鏡をかけ、クロイドンの巨躯を見上げる。不敵に笑うと、楽しげに半ばひとりごちるようにつづける。
「まぁよい、葬儀と新帝の戴冠では、口さがない都雀どもに、ビルドの威勢を少し見せつけてやるか。落ちぶれはてた帝国の権威を保ってやっているのは、半島にふんぞり返った腐れ貴族どもではない……」
【クロシア公領ビエンヌ 朔月城アレース殿】
クロシアは東のクロァ海と、湖の北に広がるペルベス山地とを境界として、ヌアールとイオと接している。イオはクロァ海の東に、ヌアールはそのほぼ真北に位置する。
クロシアの公都ビエンヌは、水の都として名高い。
クロァ海の西岸に位置し、河川と無数のカレーズ(水路)が網の目のように張りめぐらされた街は、湖上に浮かぶ“千の橋の街”とも呼ばれている。街道と同じくらいに水路が当たり前のように使われ、チョキと呼ばれる小舟がゆったりと流れる水路をいきかう。
ビエンヌの西の丘陵を囲繞し、本城たる朔月城はそびえる。堅固な山城である。その奥まった一角に、アレース神の祠はあった。
クロシア公ヴラードは戦神アレースに深く傾倒しており、城内に神格を勧請している。城の奥域に建つ祠は、城主たるヴラードしか近づくことはできない。石造りの祠は簡素きまわりない。宝剣を抜きはなった青銅製の神像が、小部屋の一隅にしつらえられた主壇に祀られているのみだった。
祠内は灯火が揺れ、床に敷いた毛氈に座して神像と向かい合うヴラードの姿があった。
歳のころはまだ30代の半ばであるが、広い額の下の奥まった眼、太い鼻は、若年に似合わぬ老成した風があった。眉間には、皺が深々ときざまれている。顔の下半分を、ちぢれた黒く濃い髭がおおっており、それがなおさら年齢以上の落ち着きを見せていた。やや小柄であるが、ひきしまった体躯である。
賢帝の崩御の報せは、とうに届いていた。老いた賢帝の死は、すでに予定の内である。安寧にある帝国は、それによる瑕疵は少ない。ユスティアヌスの治世は当分つづくであろう……誰もがそう考えている。
瞑目していた。
もうかなりの時がすぎ去っていた。
ゆっくりではあったが、ヴラードは流動する思考を取りまとめつつあった。
賢帝の死、世代の交代、カイネウスの擾乱、イオの内乱の気配、南方ではいつ終息をむかえるとも知れないラベリアナの騒擾、それにともないベルセーヌ大陸の諸都市の混乱、帝国内では十王家のさらなる弱体化と、自身もふくめる公家や各地領主の伸張、それに皇宮内の権益が複雑にからみあっている。
もっとも、それらのような事柄は帝国900年の歴史の中で、常に内包してきた危うさであった。もっと激しい危難がせまったこともあるが、帝国は乗りこえてきた。賢帝戴冠以前の混乱期ですら、水面の波立ちがやがておさまるように収束をした。そう、とりたてて危険視するようなことではないのだ。
だが凍った河の氷の下では、水が激しくうねりつつ流れているのと同じように、人々には見えない場所で大きなうねりが訪れようとしているのを彼は漠然と感じとっていた。
それらがどのような意味をなすのか、それはヴラード自身もはっきりとつかんでいない。だが彼は別のものを見ているのだ。
おそらく、この時点でそのことを意図的に見すえているのは、彼ひとりであったと思われる。
「少々長すぎたか、安寧が……」
長い沈黙のすえに低く独語すると、神殿の窓から外を見やる。
クロシアは雨季に入っており、ビエンヌは長雨にけぶっていた。
後に……枢軸の世紀と呼ばれるこの100年の、その初期を代表する王と云えば、誰をさすであろうか?
あるいは簒奪者、北の梟雄カイネウスの禿頭王ダゴン、ビルドのイヴァーン、もしくはヌアールの青い鷹サヴァードを挙げる者も多いであろう。
いずれも奸智に長け、鮮やかな武威に彩られた王公であるが、もっとも強大な王として誰か1名を挙げろと問われれば……おそらく多くがクロシア公ヴラードの名を挙げるのではないだろうか。
壮麗さとはおよそ無縁の田舎の小土豪じみた、寡黙で目立たぬこの人物は、華々しい戦歴で恐れられる以上に、得体の知れぬ理を以った、たがのはずれた怪物としての生涯をおくることとなる。
【香都西方旧城区 カラザス街 ボリス親父の洗濯物干し場】
「喪中だから諸事控えめにって、組内の年寄り連中が云ってきてるらしくって……」
唇をとがらせたのは、くすんだ赤毛の少女だった。大きな洗濯籠を抱えた彼女の額には玉がうかび、背中も肩も汗が大きなしみをつくっていた。隣の黒髪の少女も同様である。
今年の夏は例年にくらべてずいぶんと涼しかったが、それでも山のような洗い物を干し場に広げているだけで、まだまだ身体を焦がすような陽射しだ。
干し場には、数えきれないほどの洗い物が風にひるがえり、まるで紗幕で世界がいくつにも分断されたかのようだ。
あちらこちらに仲間はいるはずだが、その日に限ってミヤたちはふたりきりであり、いつもなら絶え間なく聞こえる乙女たちのおしゃべりも耳に届かない。
「あら、延期にしろって云われないだけましじゃない?」
仲のよいケオラがそうなぐさめるが、ミヤのぼやきは止らない。
「聖上がお亡くなりになる前からの決まりごとだから、中止にしたり延期にしたりすると縁起が悪いんだってさ。けど婚礼だって質素にしなきゃいけないし……あぁ、何かにつけて湿っぽいことばかり。お父ちゃんたちは物入りが少なくってすむから、きっと腹の中じゃほっとしてるのよ」
「だからって、いつまでもひとり身で家にいるわけにもいかないでしょう?」
「そりゃそうだけど……」と頬をふくらませると、話の矛先を変えた。「それよりケオラの方は?」
「ふふ……まぁね、ひょっとしたら……」
「ヒヤヒヤ!」ミヤは思わず声をあげた。「ケオラにもファーランのお験があったってことね。ねぇ、いついつ?お相手は?」
「ふふ、兄上の紹介でね……」
照れながらもケオラはつづける。歳の離れた彼女の兄が、商家に奉公にあがっているとは聞いていた。あいまいなことを云っているが、大体の話はもう固まっているのだろう。実は一刻も早く話したかったに違いない。
「でも……」ケオラがわずかに顔を曇らせた。「あたしの相手、小さな店を持っているらしくってね、所帯を持ったらあたしも店の手伝いをしないといけないの。だから……この仕事はやめなきゃならない……」
「え……?」
ケオラのその言葉に、ミヤは何となく言葉を失った。所在なげに脚台に腰をかけた。ケオラも隣に腰を下ろす。脚をぶらぶらとさせる。
「そうか……」
「……そう」
つぶやくようなミヤの言葉に、これも気弱げなケオラの応答。そしてその後につづいたのは、気まずい沈黙だった。
その時、一陣の涼風が吹きぬけていった。はっとする冷ややかさだった。
見上げた空がいつの間にか高くなっていた。気がつかないうちに、秋の気配がそこまできていたのだ。
「夏が終わるねぇ……」
ケオラがぽつりとつぶやいた。彼女も同じことを感じていたのだ。ミヤは小さくうなずいた。
まもなく夏が終わる。
それは今年の――という意味ではなく、もっと別の夏が終わるのだと、ミヤはぼんやりと感じていた。
(了)
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