たくましき青年神カルトスの駆る、まばゆい光と熱の馬車が天空をめぐる時節をむかえようとしている。夏がはじまろうとしていた。
春の訪れの早いホントでは、夏の気配も早い。ようよう春が過ぎたというのに、4の月に入るととたんに朝が早くなり、曙光も日に日に熱をおびているようであった。さすがに夏月だけのことはある。
まだ朝もやは晴れきっていない。ミヤは洗い籠に山ほどの洗い物を詰めこみ、他の洗濯女たちとともに脚早にすすむ。誰もかれも息をするより、おしゃべりをし、笑いころげるために口を使う方が多いような歳ごろの娘たちばかりである。早朝とはいえ、黙って歩くことなどできやしない。2人3人と群れ、それでも世間をはばかりながら小声で口さがない噂話に夢中である。
強いくせのある赤毛が、歳ごろにふさわしい悩みのたねであるミヤは今年16になる。伸びやかに育った身体は、どこもかしこもはちきれんばかりの若さに満ち、臙脂の気配もないが、若草のような少女のみずみずしさが匂いたっていた。誰もが永遠に閉じこめておきたいと願うような、そんな若さである。
だが夏が終わり秋がくれば、ミヤはムトゥという名の鍛冶職人に嫁ぐことが決まっている。
ミヤよりも7つも年長だが、彼女に嫁ぎ口を世話した近所の世話焼き人たちの話によると、またとない良縁だそうだ。だそうだが、ミヤとしてはやや不満がある。何度か会ったが、火に焼けて赤黒く、木の実のように小さい眼とだんごっ鼻といった具合に、どうひいきしても見目うるわしいとはいえない。
(あれじゃあまるで猪じゃない……)
ミヤは想う。身体こそは太くて頑健そうだが、無口で愛想が悪い。芝居絵に描かれているような、水もしたたらんばかりの美男子とくらべて月と泥亀ぐらいの差がある。
ミヤだっておとぎ話や艶笑譚に出てくるような胸をときめかすような色恋沙汰など、ありえないってことぐらいはわかっているし、自分だって十人並みの器量だから男の容姿にばかり文句を云う筋合いではないのはわかっているが、それでも世話焼き人たちも、どうせ世話をやいてくれるのなら、もう少し奮発してもらいたかったと思う。
何にせよ向こうも大層乗り気で、自分の下にまだ4人もいる父や母たちも諸手を上げて歓迎しているから、まぁ仕方あるまいと考えている。どのみち、誰かに嫁がねばならないのは同じなのだ。良縁とちやほやされるうちが嫁ぎ時だ。
「ミヤ、ミヤ、あなたもう“御輿入れ”するんだから、指はきれいにしとかなきゃだめよ。男はそんなところを見るんだから。仕事の後はきちんと油を塗って、温めて寝なくっちゃ」
同い歳のケオラがからかう。彼女は仲のよいミヤに先をこされたのを、いつも悔しがっている。
「あら、ミヤの指はいつだってきれいじゃない。それよりもその赤毛の巻きぐせがなおりますようにって、ちゃんとファーランにおまいりしてる?」
「ミヤに必要なのは、安産祈願のお札よ。ピルのお宮には参った?」
仲間たちがくすくすと笑う。ミヤは気恥ずかしくって、頬をふくらませる。
「どういたしまして!」
歳の近い少女たちは、またおかしそうに笑いころげる。仕事仲間内でも、年の内にもう2人の縁組が決まっており、彼女たちはそちらもひやかすのに連日忙しい。
ホントの下町に暮らす女たちは、たくましくいずれも耳年増である。話題は常にそういった事柄であり、誰もが興味津々である。そういった体験がこっそり卑猥な味付けがなされて処女たちに耳打ちされるのも、頬が赤くなるような密やかな楽しみだ。あれほど口働きが達者だった姐さんが、嫁いだ途端まるで人が変わったように、しとやかに町衆の女房然となるのは驚きだ。
それは彼女たちにとって未知の、そしてごくごく身近に存在する冒険であって、いつか自分がそこへ飛びこんでいく日を、心惑わせながら待ちわびているのだ。
誰かが歌をはじめる。
「お陽さまよ、お陽さまよ、
どうかもう少しだけ待っておくれ。
あなたがくれば、いとしいあのひとは帰ってしまう。
あのひとの腕が、まだあたしを抱きしめているのに。
あのひとの甘い吐息が、あたしの耳にかかっているのに。
だから、
お陽さまよ、お陽さまよ、
もう少しだけ、もう少しだけ
あのひとの腕に抱かれていたいから。
どうかもう少しだけ待っておくれ」
唄い終わって、あけすけな笑い声があがった。ミヤも思わず吹き出した。若い乙女たちが歌うには、いささか艶っぽく際どい恋歌――などと眉をひそめるのは、いつだって頭のかたい大人たちだ。
早朝の洗い仕事は重労働だ。朝まだきから親方の仕事場に彼女たちは集まり、山のように洗い物を背負って、親方が買っている洗い場へと向かう。この時刻の洗濯は夏の間だけだが、冬になると気が遠くなるほどにつらい。5年前に初めて奉公にあがったミヤは、毎日泣くような想いだった。
冷たい水に洗濯物をさらして連日凍えるような思いをしても、陋巷に生きる彼女たちはいつだって歌と笑いにあふれていた……
彼女たちの一団は、皇宮の一番外堀のそばを突っ切って歩く。洗濯女風情が皇宮に近いところを歩くなど、身分をわけまえろなどと、親方は云われているようだが、こづかれでもしないかぎり、誰もそのようなことを聞くものではない。親方だって、へえへえと腰をおり、ミヤたちに小言めいたことは云うが、いつもそれでおしまいだった。実際の洗い場はもう少し先だが、ここを突っ切っていくだけで、ずいぶんと近いのだ。
(大きい……)
ミヤは眺めやるたびに、心の中で感嘆する。広大な皇宮は高い宮壁や満々たる水をたたえた堀や鬱蒼たる木立に幾重にも護られ、その奥を垣間見ることすらできない。皇室のやんごとなき方々と云われてはいるが、中にいるのは一体どのような人なのだろうか?
(でも……)
とミヤはいぶかしげに首をかしげた。どういうわけであろうか、今日の皇宮からただよう気配のようなものが、いつもと違うように感じたのだ。どのように異なるのかはうまく云えないが、どこか剣呑で殺気立った、あまり近づいてはいけない類の違和感だ。
その時、視線の先にかすかな人影をみとめた。脚が止まり、仲間たちの群れから自分だけが取りのこされた。
(……あれは?)
宮壁の途切れる場所に、堀に向かってしつらえられた造り出し部であった。低木の繁みから姿を現したそれは堀際に立ち、朝もやごしに小さい。誰であろうかと凝視するが、無論宮内の者に違いない。眼がなれてきて、その人影の様子がはっきりわかってくると、思わず息を呑んだ。信じがたいものを見ていた。
神界の精霊が降りてきていた。
まごうことなく少年の姿をしているのが遠目にもわかる。絹よりも繊細な黄金が、かすかに流れ出した朝の風になびききらめく。堀ごしでも、その美貌はあきらかに人のものとは違う。天上の美だ。神々の彫塑である。立ち表れただけで、ただの潅木しかないそこが、光輝にあふれた豊饒の地と化したかのようであった。
ミヤは息をするのも忘れていた。
精霊は身にまとった衣服のどこからか、何か薄絹のようなものを取り出した。かすかに裾が揺れている。夢のような光景だった。
精霊がこちらを見ていることに、不意にミヤは気がついた。その宝玉のような双眸がいつか彼女を見すえている。心臓が止まるかと思った。今度は今までよりもまだはっきりと風貌がわかる。地上の名工が会得した技能のすべてを用いようと、決して創りうるものではない。やはり天上の存在だ。
その美貌が冷たく笑っていた。まるで小汚い洗濯女であるミヤのことを、笑っているようだった。急に恥ずかしくなった。
精霊の手から薄絹は離れ、たなびきつつふわりと水面に広がり、ゆったりとした流れに揺らいだ。
なぜそのようなことを――と不審に思い、再び精霊に眼をやってまた驚いた。そこにはもう誰もおらず、潅木はただ驚くほどただの平凡な低木の繁みにすぎない。さっきまでは輝いて見えた曙光すらも、急に色あせてけだるげに思える。
精霊は永遠にどこかへ去っていた。ミヤの心が激しく動悸した……
(やっぱり、あれは精霊だったんだ!)
気がついたら精霊が堀に投げ入れた薄絹は、ずいぶんと流されている。
ミヤは洗濯物が山となった洗い籠をその場に置くと、スカートの裾をつまみあげながら慌てて駆け出した。仲間たちはもうとうに遠くなっている。息をきらせて堀が井手へと分岐する堰までたどりつく。細くなった水路めがけて堀の水は徐々に速度を増しており、幾筋もの渦も生まれて水の流れは複雑なものとなっている。
ミヤは岸を駆け下り、そばに落ちていた枯れ木を拾い上げると、堰の平石に飛び移った。肩で息をしつつ上流を眺めやると、あの薄絹のようなものは波間に見え隠れしつつ、こちらへ流れてくる。しかし意外に速い。それにいつ堀の底へ引きずりこまれてしまうかわからない。
飛び飛びに按配された平石の上を、こっちか、あるいはあっちかと何度も飛び移りつつ、胸をどきどきさせて待ちわびる。薄絹は彼女の眼の前で、不意にぐるりと堰が作った不規則な渦に巻きこまれて姿を消す。あっと思ったら思わぬ場所からまた浮き上がる。また場所替えだ。
ついに薄絹は眼前まで流れきた。枯れ木をのばす。すいと薄絹は逃げていき、むなしく水面を叩いただけだ。慌ててまた平石を飛び移る。もう井手に呑みこまれる寸前だ。ミヤは焦る。思い切って身体をのばす。その途端、脚元がすべった。あっと思った。不意に耳元にごうごうという井手の水音が響き、ぞっとした瞬間に、身体が激しく濡れた平石に叩きつけられていた。大慌てで起きあがるが、スカートも上着もじっとりと濡れている。急に情けない気分となった。自分は何をやってんだろうって。
しかしまだ右手に持っていた枯れ枝の先を見ると、そこにはあの薄絹がからまっている。まったくの偶然だ。
眼を見張る。慌てて手に取る。
「……きれい」
ミヤは思わず感嘆の声をあげた。毎日何百もの洗濯物にもまれている彼女ですら、一度として触れたおぼえはないほどの上等の絹であった。蜘蛛の糸のように繊細で、水につかっていたというのに、まるで重さを感じないほどであった。
大きさから、枕にかける布であろうかと考えた。しかしその真ん中に子どもの掌ぐらいの大きさで、黄緑がかった染みがあった。ミヤは経験から人の吐いたものだろうと見当をつけた。
残念なことだ。こんなにきれいなのに、それだけが台なしにしている。だがこんなもの、自分でサボンをたっぷりつけて洗えば、簡単におちてしまう染みだ。しばらく堀の水の中にあったので、もうほとんど消えかかっているぐらいだから。
これはきっと精霊がくれた宝物だ……ミヤはうっとりとそう考えた。
……遠くで彼女を呼ぶケオラの声がした。はっとして、ミヤは手にした絹を慌ててしぼり水気をきると、スカートのかくしに忍ばせた。
後できれいにすれば、きっとすてきな絹となるだろう。こんなきれいで薄くって上品なものを持っている者は、絶対他にはいない。精霊はあたしを選んでくれたんだ。ちょっと冷たい感じで、まるで子どもみたいだったけど、あれはきっとまぎれもない精霊だ……
そう考えただけで、胸がとろけてしまうほどの嬉しさを覚えた。
* * *
予定通り、ミヤはその秋に鍛冶屋のムトゥに嫁いだ。彼の風貌はどうにも好みとはいいがたかったが、やはり人の妻となり、やがては母となる自身の将来への期待は、彼女もやはり女である以上、思いもよらぬときめきを与えた。父と母がしつらえたせいいっぱいの花嫁衣裳をまとったミヤは、我ながら驚くほどに美しく見え、親戚や友人たちに祝福されたその日は、一生彼女の心にのこることとなった。
無口で愛想がなく、不細工とまでは云えないが端正な顔立ちとは云いがたいムトゥであったが、その心根は誠実であった。つれあいとなったミヤに、この上ない愛情をそそいだ。元々気立てのよいミヤのことである。彼の心根に接し、心情はあっさりと変化していった。
小鍛冶を職としている彼は身体も壮健で、大酒も呑まず賭博にも手を染めず、骨惜しみをしない性格であるため、周りの者からも一目置かれていた。贅沢こそできないものの、彼らが暮らしていくには充分な見入りがあり、ミヤは彼との新しい生活に、充足するようになった。
芝居絵に描かれている美男子とはまるで違う……などと世間知らずで子どもっぽいことを想っていた自分が、何ともばかばかしく感じられる。そのような彼を好ましく感じるようになったということは、彼女の側の心根にも何らかの変容がおきているのである。ミヤもまた大人の女として妻として、健やかな成長をとげたものであろう。
ミヤはムトゥとの間に二男一女をもうけている。
13年後の遷都ではムトゥ一家もホントを離れることになり、時代の動乱に翻弄されることとなったが、彼らはそのうねりを乗り切ろうと懸命に生きていく。
結果から云うと、ミヤは60過ぎに天寿をまっとうする。ムトゥはその数年前にみまかっている。彼らなりの苦労や哀しみは山のようにあったが、まずまず幸せで、ごくごく平凡な一生であったろう。
* * *
精霊とであったことは、誰にも云ってはいけないのがきまりだ。彼らは選んで人の前に姿を現す。そして大事なことを告げ、あるいは未来を示唆する。その信頼を損なえば、精霊の怒りをかう。だから彼女はそのことを誰にも話していない。
精霊の顔は記憶にない。とてもとても美しかったことは心にのこっているが、具体的にどのようなものであったかは、茫漠とした霞の中にある。彼女は知らなかったが、その顔を憶えていないのは、むしろ幸運なことであったかもしれない。もし憶えていたならば、何らかの身の危険がおよんでいたかもしれない
彼女が手にした絹をミヤはその後、大事に大事にとっていた。その蜘蛛の糸で編まれたかのような薄絹は、貧しくつらい彼女の暮らしの中で、ほのかに彼女の心を照らす宝物となる。やがてミヤはその絹で護り袋を縫い、一人娘が受け継ぐこととなる。
さらにそれはミヤや彼女の娘が手放した後、そして彼女の死後も幾人もの手を経て、持ち主である彼女よりも数奇な運命をたどることとなるのだが、無論ミヤはそのようなことは想像もつかなかった。
彼女はただあの日の朝、精霊とであったのだとかたく心から信じているのだった。
* * *
ミヤが皇宮の堀ぎわで精霊を見たその早朝。
彼女が感じた皇宮が発していた違和感は、決して錯覚ではなかった。無論それはごくごくわずかな者にしか知られてはいないものであったし、知られてはならぬものであった。
だがしかしその日の早朝、確かに歴史は動いていた。皇宮の幾重にも張りめぐらされた紗幕の奥の奥で、何かがうごめきはじめていた。
100年紀の最初のその年――後にその年を以って、時代は大きな転換をむかえる。カイネウスの政変、そして年の後半にはイオ内乱の勃発と、大きなできごとがいくつもつづいた。
そのひとつにして、最も大きく象徴的であったできごとがすなわち――賢帝エリア・アエリウスの崩御である。
(了)
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