【Ⅳ】
両者の間にあった間合いが、その瞬間消えて失せたかのようにマールは感じた。両者ともただの1歩も動いてはいない。しかし両者の間に存在した隔たりが、ただひと呼吸で互いの生命を殺傷できるものへと、確かに変貌したのである。
ピウスはやわらかい八双に、ユースチスは下段に構えている。しかし両者とも微塵も動かない。
強い若草の香りをふくんだ風が、静かにそよいでいる。廃殿は漠たる静寂に包まれていた。
「彼、強いですよ……」
マールの隣に立つ傭兵が、低く云った。
「まことか?」
「ええ、やばいかもしれませんよ」
マールは構える両者を凝視するが、ピウスの技量を知るマールには、ユースチスが彼に匹敵するほどであるとは信じることができない。
両者は親子ほどに歳が違う。ともに中背で、むしろユースチスの方が小柄に見える。肉体に宿る力から云えば、若者の方が優っているであろうが、鍛錬の量も経験もくらべものにならない。野試合の経験もピウスは何度もある。道場で木剣を振るっているだけのお座敷剣術ではないのだ。
「お主、一体何を……」
「――動きますよ」
ネロスの言葉が終わる間もなく、両者が同時にすべるように動いた。
その距離が一瞬でつまる。横殴りの一刀がユースチスの胴を薙ぐ。巻きこむようにして跳ねあげ――と返す刃がきらめき、両断する勢いでピウスの頭上を襲う。2本の大刀がからみ合い、激しく火花を散らす。二閃、三閃、また激しい金属音――同時に両者が跳び退り、再び同じ間合いをとり大刀を構える。
まばたきをする間の、わずか一瞬の攻防であった。
「……強い!」思わず感嘆の声をあげるマール。「若いのに、まるでひけをとらぬではないか……」
「ありゃたいしたもんだ……まさかこれほどとはねぇ」
ネロスは顎をなでながら、愉快そうにつぶやく。
「お主、なぜわかった?」
「まぁ何となくです……それよりも気をつけておいたほうがいい。右手の木立……あやしいですよ」
その言葉の意味を理解するのに、一拍必要だった。
「まさか……!なぜそう思う?」
「あちらの立会い人の眼が泳ぐんですよね、どうもあのあたりに。まず間違いなく伏せてますよ」
「そのような卑怯なまねを……決闘を汚すとはどのようなつもりだ!」マールは愕然とした。「あ奴、見損なったぞ!」
「はたしてあの男、知っているのですかね?」
ネロスが眉をひそめつつ、ぽつりとつぶやいた。傭兵の視線の先には、ピウスと相対している若い剣士がいる。その意識はすべてがピウスに注がれ、雌雄を決する以上のことを望んでいるようには、とうてい見えない。
今度はユースチスが、一息に間合いをつめる。鋭い大刀風を、ピウスは見事な剣さばきでこれをさばく。
再び間合いをとり構える。両者ともに剣配に微塵たりとも狂いはなく、息も乱れていない。
今度の対峙は長くなった。
「強いな」微笑しつつピウス。「それだけの技量となるには、ずいぶんと鍛錬を積み重ねてきたのであろう。父君の仇に固執せずとも、前途は開けよう」
「臆したか?あなたから云われるとは心外です」
ユースチスは眉をひそめた。
「歳をとると、お主のような若者とやり合うのは骨が折れるのよ」
「私はあなたを恨んではおりません。ですが父の仇たるあなたを超えて、私はすべてを清算するのです」
ユースチスの言葉は静かな焔のようであった。そしてまた、内に熱をたくわえた石のような硬さであった。
「まじめだな。いや、若い若い」
そう云うと、ピウスは不意に構えていた大刀を下ろし、片手にぶらりと持ち直す。どのようにでも撃ちこめる無防備さである。
「――ッ?」
呼吸が乱れた。いや、ユースチスが外されたのだ。
一瞬の躊躇。その感覚が失せる前に、ピウスの身体が眼前にあった。
あったと思った瞬間には、片手撃ちに斬り上げられた剣先のうねりを感じ、かろうじて眼前でさばいたかと思うと、つづく斬戟が蛇にように執拗に斬りつけていた。
ユースチスの身体は、反射的にそれを技量以上のもので撃ち払い、跳び退り必死で間合いを切っていた。反応できたのは僥倖のようなものだ。
「く――」
ユースチスがうめいた。構えなおした彼の左手の甲から、朱が一筋流れ、表情に、わずかにひるみの色があった。
両者の間でたゆたっていた均衡の天秤が、今初めてわずかに狂いを生じている。
ユースチスの立会人の表情が変わったのが、マールにも看取できた。その腕が上がる。それを合図に、ネロスがあやしいと云った木立から、草を蹴たてて3人の男が走り出てきた。
「おのれッ!」
マールが叫んだ瞬間、ネロスがいまいましげに舌打ちをして疾駆していた。3人はいずれもたくましい体躯を持ち、腰から剣を下げ、荒事に手を染めていることが見てとれる。たちまちピウスらに迫り、その勢いのまま抜剣をする。
傭兵がピウスらとの間を遮る。
「どけッ!」
3人の誰かが荒々しく吠えるが、ネロスは退こうとせぬ。3人の剣士が迫る勢いは怒涛のようであり、ネロスを一息に押しつぶそうと肉薄した様は、まさしく大波が巌を呑みこもうとするかのようであった。
マールは思わずうめき声をあげた。その勢いは、到底たったひとりで抗しうるものには思えなかった。
薙ぎたおそうとした男たちの剣閃がその身体に届くかというその瞬間、ネロスの腰がすぅっと、沈む。腰間から銀光が鞘走り、白刃がきらめいた。
まさに地に根をはやした不動の巌に波濤が砕け散るがごとくに、男たちの身体が血煙をあげた。駆けた勢いそのままで、操り糸を瞬時に切られた人形のように、下草を薙ぎ倒しつつ派手に転倒をする。若草に混じり、血の匂いが濃くただよった。
あるいは腿を斬り割られ、またあるいは肘の筋を斬り裂かれ、男たちは苦鳴にうめく。
「……アザトース、アザトース!」
うごめく男たちのひとりが、腿を押さえながら叫ぶ。その視線は、彼らが飛び出してきた木立にあった。
ネロスはちらりとその方角へ顔を向けたが、興味なさげにうめく3人へとまた視線をもどした。
別の男が、ネロスの顔を見上げつつ、脂汗を顔中ににじませ、右の手首を押さえながら叫んだ。
「……その顔、見たことあるぞ、貴……様ッ!まさか“疫病神”ッ!?」
男の手首から先は失われていた。
「その縁起でもねぇ呼び名知ってるんなら、お前も雇われか?」
ネロスが苦笑する。
「てめえ……金積まれやがったな!」
「そりゃ、お前らだろ?」血糊のついた大刀の刃をぬぐい鞘に収めつつ、男たちに冷酷に云って放つ。「とっとと失せな。はした金で命まで失くしちゃ、間尺に合わねぇだろ?腕の1本ですんで感謝しな」
(つづく)
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