【Ⅱ】
しばし言葉を忘れた。ピウスの大刀が静かに鞘におさまり、ようやくマールは大きく、しかし気がつかれないようにそっと息をはいた。気がつくと、掌がびっしょりと汗でぬれていた。
「よくぞ参られた」
その言葉が自分に向けられていると、しばらく気がつかなかった。ゆっくりと振りかえったピウスの眼元が笑っていた。
「気がついておられたのですか?先生は背中に眼がついているとみえる」
「このような時の方が、物はよく見えるものです」
そう云いつつ、藁束を拾いあげる。藁杭はこれが人ならば、ちょうど左肩のあたりから右の腰にかけて両断されていることになる。
「……ふむ」切断面をのぞきこむ。「ようよう形になってきたかな?」
「これならば、斬られた者は痛みを感じる間もないでしょうな」
いつの間にか黒髪の男が傍らにいた。身体に見合った太い声だった。大きな掌で顎をなでつつ、おもしろそうにそう云った。
「いや、なかなか力みはなくならぬものだ」
マールも傍らに近寄りのぞきこむ。束となった藁の切断面は一本もつぶれておらず、わずかな乱れもない。男の云うとおり、凄まじい技量だと思った。
「先生が動いたと思った次の瞬間には、もう両断していました。私にはまるで見えませんでした」
とマールが素直に賞賛する。
「む……」しかしピウスは憮然とする。「察せられましたか。まだまだ斬ろうとする気が出ていたようですなぁ……後10年も精進すれば、何とか自慢できるようにはなりますかな……」
苦い顔になったピウスをその場にのこして、黒髪の男は笑いながら地面に立てた藁杭を片手で軽々と引っこぬくと、肩にかついで道場裏の方へ歩いていく。
「ところであの者、先生のお弟子で?」
「はは、まさか」笑うピウス。「知り合いですよ。タラやラベリアナでは名のとおった傭兵とのことだが、ホントにいる間、うちに泊まっているのです」
違うのか……と興味を失いかけたマールであったが、次の言葉に眼をむいた。
「あの男――ネロスが弟子であったなら、そうですな……まず私の名をはずかしめはせんでしょう」
「それほど……?」
改めてネロスと呼ばれた男を振りかえる。見上げるほどでありながら、虎体狼腰の引き締まった体躯。だがピウスですら一目おくほどの剣士であると喝破できる眼力は、彼にはない。
ピウスが穏やかに云う。
「さて、ところでマール殿、今日のご用のむきは?」
* * *
下男が道場前の中庭に小卓を持ち出し、酒盃を用意する。準備の間、かつて通った道場に立ち、そのありさまに眼を細めた。20代の数ヶ年、ホントに駐在したころに通ったのはもはや数十年前であるが、何度か増改装を繰り返してはいるものの、様相に変化はないように感じられた。この道場に通った剣士たちの汗と血が染みついているようだった。
マールが在都時のころから、ピウスの剣才はすでに群を抜いていた。先代の死後に道場を継承してからは、数百、数千と剣士のいる広い香都でも5指に入ると云われている。
ホントに駐在する武官らが都中の道場に通うことは、尚武の他にも人脈づくりの意味もあり、どこの国でも奨励されている。マールが若かりし日は、ピウスの先代がこの道場主であった。あのころは道場主であった先代は無論、代稽古をしていたピウスにすら3本に1本も打ちこめなかったものだが……元々好きな道であったため、非番の日は必ず脚繁く通ったものであり、深い交流が生まれた。ことに歳の近かったピウスとは、気があった。マールが帰国した後も親交はつづき、代替わりしてもその関係は変わっておらず、時節の伺いは欠かさない。
久闊を叙し杯を交わすと、マールは従卒に持たせたひと巻の絹と金子を差し出した。
「本日は別れを告げにまいりました」
マールが切り出すと、ピウスはかすかに表情を変えた。
「本国より帰還命令がおりました。私ももう歳です。今ホントを離れたら、二度と訪れることはないでしょう。先生とは、おそらくこれが永の別れとなると思います」
「む……」
ピウスが瞑目をし、沈黙に入る。マールはあえて言葉をかけず、庭先に三分咲きとなっているタオファの老樹に眼を向けた。おそらくもう二度と見ることはかなわぬであろうと思い、その光景を眼に焼きつける。午后おだやかな陽光は、春が近いことを告げていた。
「……そうですか」
眼を開いたピウスが、深い嘆息とともに云う。
「お父君の代から薫陶をいただきましたが、何の恩返しもできず、申し訳ないと思っております。パールの加護があれば再びまみえることがあるかもしれませんが、それはおそらくはかなき夢でございましょう。私はイオで生涯を終えることになると思います」
「……イオの政情が不安であると聞いておりますぞ」
「ご存知でございますか」
「都におれば、その気はなくとも、さまざまな噂話が入ってまいりますゆえ」
「たしかに」
苦笑するマール。その様子をうかがうピウスがずばりと切りこんだ。
「死を覚悟しておられるのですか?」
「覚悟……でございますか……」マールがあきらめたように眉をよせた。「まず間違いなく、戦となるでしょう。私は王弟陛下の元で戦い、おそらく生きては帰れないでしょう」
ピウスは悄然と眼を閉じた。両者を隔てているものの重さを察し、何かを語ることはできなかった。マールは酒盃を静かに口元に運ぶ。鳥が啼いていた。草雲雀だった。
「マール殿」ピウスが口を開いた。何かを決心した口調だった。「これもシレーンのお導きかもしれません。ぜひお願いしたいことがある。今夕、お身体は空いておりますか?」
「大使館には使いを出して断りを入れれば、一晩ぐらい空けることはできますが?」
いぶかし気に問い直すマールに、ピウスは居ずまいを正す。眼に鋭い光が宿っている。
「決闘の立会いをお願いしたい」
(つづく)
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