【ⅡⅩ】
彼女を幽閉するために用意されたその部屋は、調度も豪奢であり、下々の者などが見れば気を失いかねないほどに贅がつくされたものでありながら、宵闇が近づいていると云うのに暖炉の他は灯りもなく……そのためすべては薄暮の中での会話であった。
「貴女の思惑どおりにはいきませんでしたな、母上」
太く、感情を押し殺した声。しかし返ってきたのは、嘲るような薄笑いの気配であった。しばし待つが、その気配が消え去ることはなく、男は再び訊ねる。
「父は国を追われ、あなたの溺愛する息子たちは殺されました。貴女が厭う男の手によって」
しかしその問いかけにもいらえはない。
「……満足ですか?」言葉を口にするうちに、徐々に激情がにじみ出てきた。「もはや誰も貴女を護ってくれる者はいない。この事態を招いたのは貴女です。貴女が母としてまっとうであれば、このようなことはおきなかったかもしれません――なぜです、なぜ貴女は私を厭う?私とて貴女の血を分けた息子ではございませんか?」
強烈な嘲りの気配が、幽閉させた部屋の空気さえも振るわせたようだった。それは、ダゴンをして背筋をぞっとさせるような邪悪と云ってすらよい気配であった。
その気配はいっかな失せることなく、部屋の空気は重くなるばかりであった。
それはこれ以上どうしようにもない拒絶であり、どのような方策を用いても、はらいのけることはかなわぬことを、男は感じた。
長い沈黙のはてに、やがて男はあきらめ、失望の中、席を立った。
「貴女は殺さぬ」失望を超えて剥きだしの憎悪。「この部屋でのこりの生涯、お過ごしなされるがよい。貴女はじきに誰からも忘れ去られる。虫のように乾涸びていくがいい」
* * *
かつてバトゥ妃たる彼女には、ただ一度だけの過ちがあった。先王大ストゥの、本来なら後継たる小ストゥとの関係がそれである。
あのころはまだカイネウスと云う国は存在せず、イーステジアの都ホントでのできごとであった。
彼女にとっては今はもう捨て去ってしまい、できることならば完全に忘却してしまいたい類の事実である。
あの時どのような情念があったのかすら、もう憶えてもいないし、もはやその存在を信じることすらできない。なぜ自分はあのように浅はかであったのかと、苦い感情があるのみであったが、それすらももはや心に漣をたたせることもなくなり、ずいぶんとたつ。
それはただの一度の過ち――そう、過ちとしか云いようがない。
しかしその挙句生じた“もの”は、記憶の彼方にある一夜の情交とは異なり、決して眼の前から消え去ることはなく、彼女に悔恨と屈辱を常にかきたたせる。
バトゥ王が彼の実父ではないこと、それは決して口にはすまい。誰も知らぬことである。彼女は墓石の底までその事実と同衾し、地獄の底まで携えていく。
彼の者は彼女にとって罪の象徴であったのだ。
父を追放したと信じよと想う。罪を背負って生きるがよいと。決して楽にはさせぬ。生涯、父を追放した人非人としてそしりを受けて生きるがよい。
これは呪いだ。
自分の前に存在していることの罰を受けよ。
過ちの結果生まれてきてしまったその報いを、ダゴンは受けねばならぬのだと彼女は考える。
* * *
気がつくと数日がたっていた。乱の直後には不穏な空気があったが、それも今はほぼ沈静化しており、落ち着きつつあるようだ。
どうやら成し遂げたらしい……とダゴンが実感したのは、彼に迫ってくる雑務を片っ端から片付け、ようやく寝室に退いたその夜のその時が初めてだったかもしれない。先日来移った本宮の居心地も、いつの間にか身になじんでいた。
実際は薄氷を踏みわたるような挙兵であり、ほとんど賭けに近いものですらあったように思える。
だが考えてみると、走りだすのは意外に容易であった。より困難なことは、走りつづけることだ。走りはじめた以上、自分はもう走りつづけることを考えなくてはならないのだ。もはや立ち止まることはできない。
ふと周りを見渡すと、彼を支えたわずかな者の他は誰もいなくなっていた。
父も、母も、弟たちも、ドーレも、コルネリウスも、ロダンも……
誰も彼も皆、彼をのこしてどこかへ行ってしまった。
今や誰もが彼を恐れる。
わずか数日で、彼は疎まれし公子から、強大な権力者へと姿を変えた。
だが彼はひとりだった。
扉をたたく音。サダナが入室する。王を追っていったそのままで、しかし疲れぬいた姿であった。
「……逃がしたのか?」
なかば確信しつつ訊ねた。
「申し訳ございません。わずかな差で国境を越えた模様にございます」サダナの表情も暗い。「東方へ逃走したようですが、いずこへ去ったのかは不明でございます。何人かに追跡はさせております」
父王は完全に自分の掌からは逃げおうせたようだ――と思った。ひょっとしたらサダナが追跡に手心を加えたのかもしれないが、それを追求する気にはならなかった。
「わかった、国内にいなければそれでかまわぬ。動向は絶えず探っておけ。もうよい、“先王”のことは……」
「……は」
サダナが抱拳し、わずかに躊躇しながらも退室する。
誰もいなくなり、禿頭の公子は暗い室内にひとりとりのこされた。
寝台に上がるでもなく、着座するでもなく、部屋の真ん中にたたずんでいる。
室内は幽冥に満ち、閑寂であった。ただ暖炉の焔がおのれの役割をまっとうする音だけが、かすかに響く。豪奢に設えられた調度が、むしろ廃墟のような空疎さである。
ダゴンはひとりであった。
どこまでもひとりであった。
焔になめあげられ薪ががらりと音をたてて崩れ、室内の暗がりが妖怪のように艶かしく妖しく蠢いた。
卓上の酒甕に伸ばしかけた手が止まる。
不意に……
何とも云いがたい感情が膨れあがってきた。暖かであったはずの室内の空気が、嘲笑うかのように冷えびえと瞬転したかのように感じた。
次の瞬間、卓上のもの酒甕から酒盃までなぎ倒していた。床に落ちた酒器は絨毯のために、思ったほど音はたてなかったが、未練がましくいつまでも無様によろよろと転がっていった。
「どこまでも逃げるがいいッ!」
その口から、焔のような怨嗟の声がほとばしり出た。眼光は深奥で燃えさかる。傍らに人がいたら、その者は炎熱で焼け爛れてしまいかねない、そんな灼熱の言葉であり、眼光であった。顔色はどす黒いまでに上気し、その見事に禿げあがった頭までもが、憤怒に染まっていた。硬く握りしめられた拳は、こぎざみに震えている。
「どこまでも、どこまでも逃げるがいい。南の大陸にまでも、地のはてまでも!貴様が逃げるところ、どこまでも追い、蹂躙しつくしてくれるわ……!」
噛みしめられた口からは抑制のきかない憎しみの言葉が、いつまでもいつまでもこぼれ落ちつづけ、やむことはなかった。
* * *
父王追放――後にカイネウスの“禿頭王”と称せられ、猜狼と恐れられる北の梟雄ダゴンの、それが一番最初の兇状であった。
(第1話 了)
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