【Ⅸ】
「こちらでございます」
通報してきた町役に警吏らがいざなわれたのは、オルニアの中心を流れるクスニエスカ川の堰のひとつである。真北から流れてきた川は、オルニアを通過すると南西に進路を変えてヲリア海へ流れこむが、市内のあちこちには川港が設えられている。オルニアがカイネウスの首都となったのも、元々はこの立地の条件のよさである。
川港や堰ごとには周囲の街並みにより異なった気風が生まれ、たとえば東の弐番杭から伍番杭にかけては、近くの神殿の荷揚げや頻繁な巡礼者の乗り降りがあるため鷹揚で裕福な気質が育ち、逆に西の外れの河岸では貧民が寄り集まり荒っぽい気風が醸造される。その日、朝早くから警吏らが町役に案内されたあたりは、オルニア街中でも物騒な一画である。
大体の通りや小路には、行政府の肝煎りとされ手当てを受けている立場の世話人がいる。彼らは町役などと呼ばれ、町内の犬も喰わない夫婦の口争いや、できの悪い遊蕩児への説教や世話といった小さなもめごと、はてはいざこざの内済や公事調停の立会いまで駆りだされるのだが、何かことがあらば警吏へ知らせるのも大事な役割である。
「どけ、どけどけ」
警吏らは垢くさい野次馬を横柄にかきわけ、桟橋からのぞきこむ。半ば凍結した川面から突き出た桟橋の木杭に、男の背中がかすかに揺れていた。こんな朝っぱらから物見高い野次馬たちは、厄除けの印を形ばかりの切り、ちちと数度舌打ちをすると、これでもう安心とばかりに身を乗り出してその様子をうかがう。
男は何もまとってはおらず全裸である。いつから水につかっていたのであろうか、薄皮一枚の下は、はじけそうなほどにぶよぶよと膨れ上がり、気色が悪いくらいに真っ白な肌は、巨大な蛞蝓のようであった。
早朝のため、凍てつくような寒さであった。人死には珍しくはないが、かと云っておもしろいはずもない。水気をたっぷり吸って重くなった屍をこれから引き上げる面倒を考え、警吏たちはうんざりと同輩同士で顔を見合わせた。
別件の審理の打ち合わせをすませ部屋を出たコルネリウスに、部下の官吏が駆けよってきた。
「先日の殿下の件で」小柄なコルネリウスに合わせて腰をかがめ、耳打ちをする。「行方のわからなかった東宮の従僕の遺体が発見されました」
「……やはり間に合わなかったか」
コルネリウスは小さく嘆息した。
「遺体の具合から、失踪直後には殺害されていたと考えられます。腹の急所を一突きにされていました。まず間違いなく口封じでしょう」
「ぬかりはないということか」
つぶやき、コルネリウスはそのまま沈思する。唯一の手がかりを絶たれてしまったと思った。おそらく尻尾をつかまれるような真似はしていないだろう。彼には事件そのものが、紗幕の裏側に消えてしまったように感じた。自分はその向こう側でささやかれる演技者たちの声やしわぶきをかすかに聞き、ひそやかに動き回る気配をわずかに感じとることしかできない。彼らが何を演じようとしているのか推し量ることしかできない。
ふと、あの王の部屋を訪ねた夜のことを憶いだした。すでに近侍していた将軍アイマスの端正な、しかしどこか自分をあざ笑っていたかのような顔が浮かんだ。
この件に関して、王やアイマスの手が動いていないわけはないと思っている。彼らが考え、彼ら以外の誰かが実行する。動かぬ者は高みの見物である。自分のような立場の者が右往左往するのを、笑いながら見ているのだ。
あの夜、公子襲撃の報を聞き彼が王の元へ急いだのは、たとえ王であろうと、容認しがたいそのような傲慢さに対する怒りゆえにであった。いかに王とは云え、子殺しなどは人倫にもとり、国を乱す。
だが王はまるで厚い壁のようにそびえ、コルネリウスの心情などでは微塵も揺るがなかった。コルネリウスはその時知った。王は自分などとはまったく異なる倫理――王の、自身の倫理に従って自身の力を行使しているのだと。そこには自分などが介在する余地はないのだと。
そのようにして、自分たちがあずかり知らぬところで、この国は彼らのような立場の者によって動かされていくのか……そして今また、彼らの都合により無造作に人の命が失われ、そして王位の継承をめぐって血なまぐさい争いがおきようとしているはずなのに、それはまるで特別に設えられた部屋で限られた立場の者しか参加することが許されない遊戯のようだ。
自分は何と無力であるのだろうかと、コルネリウスは疎外感にさいなまされる。自分は糾弾する立場としてさえ、その争いの中に組み入れられていないのだ。
「コルネリウス様、これから……いかがいたしましょう?」
そのような様子のコルネリウスに、部下が戸惑いがちに声をかけてきた。我にかえると、部下の不安そうな表情に気がついた。
なるほど……彼の及び腰ももっともだと自嘲ぎみに思った。これ以上の捜査は徒労に終わる可能性が高いし、何より王族の醜聞に介入することへの恐れが彼らにはある。従僕の捜索までは何とか引っ張ってきたが、その死により彼らから急速に熱意が失われていくだろうことは想像に難くない。
それでも従僕の殺害も含めての捜査を命じ、部下を下がらせた。独りのこされたコルネリウスが見上げる回廊の小さな窓から、冬の空を背景として王宮の屋根がわずかに垣間見えた。
そこは親子で争う狼の巣であった。親が子を弑虐しようとしている。子はその親の喉笛を喰いちぎろうとしている。事件の背後にある王と公子との根暗い確執と、それがもたらす不吉な将来の予感に、矮躯の司法官は暗澹たる想いにかられた。
(つづく)
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