【木曜日】
どうして爺ちゃんと婆ちゃんに、かずあのことを話さなかったんだろうか?すばるがこの家に着いた次の日、あのあぜ道を下ってて出会った少女。
爺ちゃんも婆ちゃんも、すばるに友だちができたって聞いたら、喜ぶんじゃないだろうか?どこの家の子か、教えてくれるだろう。なのになぜか、すばるはそのことを内緒にしてしまった。どうしてだろう?行ったらいけないと爺ちゃんが云った場所を、こっそりたずねているからだろうか?
あの廃屋はいつも透明な夏の光につつまれ、蝉の声こそものすごいけれど、それ以外はまるで外の世界から遮断されているかのようだ。きちんと整えられ、余分なものなど存在しないかのようで、それでいて凝縮しているかのように夏は濃密だった。
そこであの少女とこっそり会う。わくわくするような秘密だ。すばるの胸の奥にある小さくて重いしこり、それの存在すらも、あそこではまるでつまらないもののように薄れてしまう。そんな時間が、信じられないほど大切に思える。
もし爺ちゃんたちにかずあのことをしゃべってしまって、あの廃屋へ行っていたことを知られてしまったら……爺ちゃんは怒るだろうか?もう二度と行けなくなるかもしれない。そう考えただけで、いいようのない不安に胸が痛む。だからすばるは、誰にも秘密にしているのだろうか?
*
今日のかずあは、初めて見るひざまでの真っ白いワンピースだ。そんな格好していると、まるで本当に女の子のように見えるけれど、相変わらず顔も手も脚も真っ黒で、走り回り、そのまま木にだって登る。そんな時、すぐ下のすばるは、お行儀よく、さりげなくちょっとだけ眼をそらす。
廃屋の縁側の下に、蝉の屍骸があった。翅は濃い茶色の、でっかい蝉だ。
「アブラゼミだ」
そう云うとかずあは縁側から飛び下り、林へと駆けていった。林の中はものすごい蝉の声だ。樹々に反射して、さらに増して、空気までびりびりと振動しているようだった。
かずあはその中の1本に近づき、右手を頭のあたりまで上げると、ぴたりと動きを止めた。そして次の瞬間、眼にもとまらない速さで、かずあの右手が動いた。オーケストラのような蝉たちの大合唱に、不協和音がまざった。ギギギギッと、右掌の中から声がする。かずあは次の木に近づき、また同じように何かをつかまえる。今度はまた違った声が盛大にあがる。
「見てごらん」
かずあが両掌につかんでいたものを、指ではさんですばるに見せる。最初に捕まえたのは同じアブラゼミだ。濃い茶色の翅には、太陽の力が宿っていた。次に捕まえたのは、アブラゼミよりもっと大きく、翅が透明で縁が薄緑色した蝉だ。頭が黒く光り、腹にふたつのオレンジ色のエラみたいなのがついていて、それが激しく波打ち、アブラゼミよりもっと大きくしゃがれた声で鳴いている。
「クマゼミだよ」
捕まった2匹は、必死で声をふりしぼる。
「蝉なんて、手で捕まえられるの?」
「もちろん。鳴いてる間は蝉は警戒していないから、すばやくやれば簡単だよ」かずあが自慢する。「鳴くのはオスだけだから、オスの方が油断してるかどうか、はっきりわかるんだ」
すばるはオスだけが鳴くってことも知らなかった。手渡された蝉は掌の中で激しく暴れる。すごく軽くって、節々があるのに、すべすべして、そのまま簡単につぶれてしまいそうだ。
それからすばるは、かずあにしごかれて蝉捕りの特訓。でもいくらやっても、樹のそばに近づいただけで逃げられてしまう。音を立てるな!もっとそっと近づいて!そんなボケっとしてて、捕まえられるわけないじゃない!などと、散々怒鳴り散らされたけど、まるでだめ。しまいにはそんなチビで、にぶいから、蝉からもバカにされてんだよ!なんて云われてしまった。
「夏がはじまったら、まずニイニイゼミとミンミンゼミが鳴くんだよ」
すばるがあまりにだらしないので、かずあはとうとうあきらめてしまった。
「どんな蝉?」
「もっと小さくって、ニイニイ、ミンミンって鳴くの。翅は木の幹みたいな色してるから、見つかりにくいんだよ。それから夏の一番暑いころは、このアブラゼミとクマゼミが鳴く。だからこいつらが鳴きはじめると、あぁ夏の真っ最中だなぁって思うよ」
「へぇ……」
「その次はツクツクボウシが鳴きはじめる。そうなると、もう夏も終わり」
すばるの知らないことばかりだ。蝉なんて学校の行き帰りの街路樹か学校の樹、それから公園でうるさく鳴く昆虫ぐらいの認識しかない。街で聞く蝉の声は、熱せられた道路から立ち上がってくるむっとする熱気といっしょになって、ただ暑苦しい夏の象徴のようにしか思えなかったのだ。でもここで聞く蝉の声は、夏の純度を上げる役割をはたしているようだ。
「蝉って、何年も土の中にいて、成虫になっても何日しか生きられないって本当?」
爺ちゃん家やこの廃屋の縁側の柱、林の中の草にしがみついたままの抜け殻を憶い出しながら訊ねる。紙みたいに軽く、光が透けて見えるぐらいに薄く、泥がこびりつき、かさかさに乾いた薄茶色の抜け殻。幼生の数年を土の中ですごし、最後の夏の数日の間だけ、翅を持った成虫となり、外の世界を知る。すばるには想像もつかない時間の尺度だ。
「ほんとだよ」
「たった何日かしか生きられないって、かわいそうだね」
「そう?」
かずあが首をかしげる。
「だって、あっという間じゃない?」
「蝉には蝉の時間があるんだよ。だから生きている間にせいいっぱい鳴いて、卵を生んで、じぶんたちの子孫を残して死んでいく。哀しんでるひまなんて蝉にはないし、自分たちの時間が少ないなんてこと、きっと知りもしないよ」
蜘蛛の巣に蝶がかかった時のように、そっけない。そんな時のかずあは、すばるなんかよりずっと大人で、モノゴトの道理を知っているように見える。
かずあが掌を広げると、捕まっていた蝉は鳴きながら、大あわてで飛び去った。
「わッ!?」
思わずすばるは叫んだ。飛び去りぎわに、2匹の蝉は仕返しに、おしっこを引っかけていったのだ。
(続く)
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