【火曜日】
「すばる」
朝飯を終えた爺ちゃんが、茶を飲みながらすばるに話しかけた。無口な爺ちゃんにしては珍しい。
「ひとりでどけぇでん行くんは、いっちょんかまわんが、川にゃぁ近づかんごてぇせぇ」
爺ちゃんたちはものすごいなまりで、家に来た時は、いつもすぐには意味がわからない。でも不思議なことにひと晩もたつと、何となくわかってくる。
「うん」
すばるはうなずく。家にいた時には朝食なんてろくすっぽ食べたこともないが、今は2杯目をもりもりとかきこんでいた。陽が高くなる前に、ひと仕事すませる爺ちゃんにあわせてずいぶん早く起きたのだから、腹が減って当然だ。
「あたが、そぎゃんこつ云わんでん、すばるはわかっちょろうもん」
ちゃぶ台の上を片付けつつ、婆ちゃんがたしなめるように云う。心配をかけないよう、こちらにも如才なくうなずく。
「あぁ、それとな……」
爺ちゃんが煙草に火をつけつつ、ひどくくせのある、すばるには聞きとりにくい地名だか家の名だかを口にした。
「あそこへ行ったらならんぞ」
「え?」
「ウチとこん西ン道ば下りてくっと、あぜが分かれとろぅが。そこば右に入っていったら、ならんけんの」
あやうく声をたてるところだった。爺ちゃんが云っているのは、まさしく昨日かずあといっしょだったあの廃屋のことだ。
「何なの、爺ちゃん?」
動揺したことを気取られないように、何気なく訊ねてみたが、気難しい爺ちゃんは、顔をさらにしかめるようにして煙をはきつつ、あらぁいかん、行くごたならんぞ……と同じことを繰り返すばかりだった。
*
婆ちゃんが作ってくれたおむすびを、リュックに入れて背負い、家には「夕方まで遊んできます」と書置きして、すばるはまたかずあに会いに出かけた。時間は決めていないけど、彼女には会えるような気がした。
昨日と同じようにあぜ道を下り、あの濃緑の木立のトンネルをくぐりぬけて廃屋にたどり着くと、陽射しもまるで気にせず、かずあは縁側に座って所在なげに、脚をぶらぶらさせていた。
「よう、来たなー!」
と笑いながら叫ぶ。昨日と同じようなTシャツとショートパンツ。頭には大きな麦わら帽子をかぶっている。
爺ちゃんが行くなと云っていた家がここだろうか?とすばるは考えた。信じられなかった。何でだろうか?
「川に行こう!」
きっと爺ちゃんが云っていた川だ。一瞬だけためらったが、かずあの大きな瞳に吸いこまれるように、大きくうなずいていた。
林の中は木の枝や葉が天然の屋根になっているが、ところどころ陽が射しこんで、抱きかかえたくなるような光の柱が何本も斜めに立っている。いつもじんわりと空気が動いていて、ほのかなちりが、ただよっているのがはっきりと見える。小道は廃屋の周りと違って、水気のある空気でひんやりとし、どこもかしこも、たっぷりな木や草のにおいであふれていた。
時折かずあが話かけ、すばるが言葉少なにそれに応える。学校のことや街のこと、あまり応えたくないことばかりなのに、知らないのだから当たり前だが、かずあはまったく遠慮なく訊ね、最初はためらいがちだったすばるも、やがて気にせず応えるようになった。
林の中を30分ほど歩くと、さらにひんやりとした空気を感じた。道が谷にむかって下りはじめる。林の気配に、何か別のものが混ざる。
かずあが声をあげながら、いきなり走り出した。
「かずあッー!」
叫んで、すばるも追いかける。しっとりと湿った細い山道の最後の100メートルを、ふたりは歓声をあげて転がるように駆け下り、駆け下ったそのままの勢いがようやくなくなったあたりは、すでに川畔だった。
小さな谷川だ。どぅどぅと水の音を響かせて、流れが速い。幅は5メートルほど。両岸は人の大きさぐらいの岩がむき出しの急な傾斜で、しぶきが霧のようにたちこめて、きらきらと光っている。水の中を小さな魚の銀色の影がはしる。真夏なのに、身震いするほどの冷気が谷をつつんでいた。うっそうと繁る木立はその冷気を外に逃さない。
そこは平たい岩をいくつも組んだ降り場のようになっていて、脚をのばせばすぐに水面につま先がつく。きっとずっと昔の誰かが、造りあげたのだろう。かずあは麦わら帽子と運動靴を脱ぎ捨てて、くるぶしまで水に入る。
「冷たいッー!」
すばるも背負っていたリュックを投げ捨て、急いでサンダルを脱ぐ。流れの速い水に脚をつけると、思わず声が出た。驚くぐらい冷たい水だ。きっと10分と入っていられないだろう。
流れのあちこちに落差があり、深さがわからない、ちょっと怖いぐらいの淵もできている。逆巻く深緑色の水は、近づくのをためらわせるぐらいの不気味さだ。かと思えば、今ふたりが脚をつけている浅瀬は澄みきって、下の岩肌はぬるぬるした水苔のような感触だ。
木立の間からふりそそぐ光が、水面に反射してきらめく。
すばるはすべらないように慎重に水の中を歩くが、かずあは奇声としぶきをあげて走りまわる。
「かずあ、危ないよー!」
「大丈夫、大丈夫」
そう云いながら、水を蹴り上げてすばるにかけようとしてきた。そうなってくると、脚元がすべるのも、もうかまわずに、敗けじとすばるも反撃する。ふたりは叫びながら、互いに水をかけあい、子犬のように走りまわった。脚が冷たくなって我慢できなくなると、降り場に上がって休憩をとるが、我慢してつかっていた方が、ここぞとばかりに水をはね上げる。かけた方が岸に上がると、今度は逆襲される。そんな攻防が、いつまでもあきることなくつづいた。
疲れきったふたりがようやく同時に川から上がる。頭から水をかぶって、ずいぶん濡れてしまった。
「お腹すいたー」
寝転んだかずあの息が、はずんでいた。
「ちょっと待って」
すばるは投げ捨てたリュックから、サランラップにつつまれたかたまりを取り出した。朝、婆ちゃんが昼に食べるようにと作ってくれたおむすびを、自分でつつんで持ってきたのだ。海苔をまいたソフトボールぐらいある大きなかたまりがみっつ。リュックの中で、ずいぶん形がいびつになってしまった。それにしても婆ちゃん、孫がこんなにでっかいおむすびを、全部食べると本当に思ったんだろうか?
ひとつをかずあに渡し、ふたりはラップを破ってかぶりついた。中に入っている婆ちゃんの梅干は、口が曲がるぐらい塩っ辛いけど、すごく美味しく感じる。ふたりは声も出さずに夢中で食べる。時々脚元の流れる水をすくって口にはこぶ。
それぞれがひとつずつを食べてしまうと、かずあはまた水の中に入る。今度は脚元に手をつっこんで、何か探している。
「すばる、いいものあげるよ」
かずあは川底に生えていた、苔みたいなものを指先につまみ、差し出した。
「何それ?」
「食べてみなよ」
「やだよ。苔だろそれ、汚いよ」
すばるが顔をしかめると、かずあはにやっと笑い、指先のそれを、ちゅるんと唇ですすった。すばるは驚く。
「これね、川の海苔。ちゃんと食べられるんだよ」
「ノリ?ノリって、あの海苔?」
かずあはうなずくと、今度は反対の指につまんでいるのを差し出した。おそるおそる指でつまむと、水気をたっぷりと吸いこんだ綿みたいな感触だ。色は限りなく黒に近い深い緑色だ。さっきまで自分たちが遊んでいた場所に生えていたものだけど……すばるは思い切って口に入れてみる。
「うげッ!変な味!」
たしかに海苔と云われたら海苔の風味がするような気もするが、冷たくって毛の感触がざらざらして、やっぱり青臭い。すばるが舌を出すのを見て、かずあは大笑いする。
「かずあ、何が海苔だよ!これにせものだろ?」
「ほんとはいっぱい集めて、乾燥させるんだよ」
にやにや笑いながら、かずあは云う。
また降り場にもどって、のこったおむすびを半ぶんこにして食べてしまうと、そのまま木立を見上げて岩に横になる。濡れているけれど、体の中心がほてっている感じで、ひんやりとした空気の中、まったく気にならない。頭上の木立をすかして、お陽さまが言葉を発しているようにきらめいていた。寝転んでいるうちに、眠気がやってきた。
「淵で寝たらいけないんだよ」
かずあもあくびをかみころしながら、話しかけてくる。
「どうして?」
「水は人の心を映し出すからね、さびしいって気持ちを持ってる人は、淵がつれていくんだよ」かずあの言葉は、どこかひやりとする低さだった。「水の中では水面に映っているもうひとりの自分とずっといっしょだから、さびしくないの。だから、すばるは気をつけないといけないよ」
「……そんな必要はないよ。ボクは別に、さびしくとも何ともない」
応えて、本当はどきんとした。でもかずあからの反応はなかった。そっと横を盗み見ると、寝てはいけないなんて云ったくせに、いつの間にか小さな寝息をたてている。ほっと息をついた。
でも……時たまかずあは、本当にすばるをひやりとさせるようなことを云う。変わった子だなぁ……そう考えているうちに、すばるもとろとろと眠りの世界に引きこまれていった……
眠りの世界との境界で、本当に意識が眠りにつくその刹那、流れる水音とは何か違う気配が、さらら……とかすかではあったが、立ちのぼるように感じられた。
(あぁ……あれ?今の……あれ何だろう?)
そう考えたが、もう動くことはできなかった。すばるの意識は、すぅっと静かな暗がりに吸いこまれていく……
後は激しい川の音……
(続く)
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