【ⅩⅧ】
ユリウスの軍が引いていた。遠く本陣からその様を見やるが、退却は整然としており、つけいる隙はないとモルは思った。もっとも隙があろうが、モル旗下の隊はようやく千五百をいくらか越しているのみである。追撃など不可能であった。
「なぜ引くのですか?」
かたわらのバーリンが低くつぶやいた。そのつぶやきにも、いつか重みが加わっていた。長き戦陣を経験し、この歳若い騎士は研磨されつつあるのをモルは感じる。
同様の疑念はモルにもある。痛撃をあたえ、王弟軍をさえぎっているとはいえ、数に勝るユリウスが東進を決意すれば、護りぬくことは困難である。
王弟軍を前線で食い止めているモル軍であった。兵糧に不自由はなかったが兵士の消耗が激しく、正直なところ膠着の緊張は限界に近い。とにかく1日でも早く、まとまった増援が必要であったが、奇妙なことに各地の反抗は収まりそうでいて、なかなか収まらない。先日も劣勢のマールが王側についているアレンビーの土豪を敗走させている。ブレア将軍やエカードは火消しに懸命であるが、その厳しい情勢の中でわずかずつではあったが、可能なかぎり王弟軍と正面で対峙しているモルへ増援を送っている。
キーブルの城外には、オルドロスの一隊が布陣している。キーブルを放棄するとは考えにくいから、彼がのこるのであろうが、それにしてもユリウスがどこへ向かうのか判断がつかない。少なくともモルには、本拠としているエウラリーアまで引くという選択をユリウスがしたとは考えが及んでいない。王位簒奪のための軍を動かしておきながら中途半端に撤退するなど、彼には理解の外にあることだった。
考えたのは、本陣を他方面に動かすのではないかということであった。ならばどこへ向かうのか、モルは把握せねばならない。斥候を放つように命じ、その報告次第ではどのようにでも陣を動かせるように指示すると、動こうとしないオルドロスの陣をいまいましげにねめつけた。
今や両隊にさほど兵力差はない。しかし彼我に差があったころよりも、オルドロスという猛将ひとりに収斂された軍は、むき出しとなった凄みをたたえている。あの腰の重い地力をもったオルドロス旗下の一軍から、勝ちを得ることができるであろうか。その時は、しのぎを削る戦いとなるだろうと、モルは考えた。
そしてまた、王弟軍の動きをさぐるモルの陣を、オルドロスの側も注視していた。あわただしさの陰から、モルが自分たちの隙をねらっているように感じる。無論、追撃などできないであろうと考えているが、あのいまいましくとりすました顔の裏側に、不利を承知でそれでも襲いかからんとする鷹のような鋭さがあるように思える。
王弟軍は彼ひとりのために、行く手をさえぎられたようなものである。カスバルの軍の中で、それを誰よりも意識しているのはオルドロスである。幾度もぶつかりあったが、彼自身の攻めは巧みにいなされ、あるいは逆に圧力を受け、モルの首をおびやかすにはいたっていない。兵力は、圧倒的にこちらが多かったにもかかわらずだ。東進するのであれば、モルこそは何が何でも討ち破らねばならぬ厚い壁であった。
退却は彼の本意ではない。
王と王弟。
王位の奪取をかかげて軍をすすめたのである。今さら後戻りなどできるはずもないと、彼は考えている。どちらかが斃れるまで終わらぬ、イオを二分するおおいくさ。そうであったはずだ。
なぜ退却する――?
彼には理解できない。
いかに言葉を弄しようと、退却は退却である。彼にはそのようにしか受け取れない。
しかしあの夜の軍議、オルドロスはひとことも発さなかった。それは彼の本分ではない。自分たちは主君の1本の剣であった。忠実な猟犬であった。オルドロスにはそれでよかった。そうあるべきだと思っていた。故にユリウスの命があれば、幾度となく身命を賭してつきすすんできた。
彼方で様子をうかがうモルが攻めよせてくればよいのに――わきあがってくる感情は、直截であった。何の桎梏もなく、モルと相対することができたらと思う。
* * *
数日後の深更。アンドレードにて、ベルンの邸宅のことである。
急使の訪れにあさい眠りをおこされたベルンは、寝着に肩掛けをはおり、寝台に上半身を起こしたままであった。
急使は、ユリウスの乱の動向を調べさせていた者であった。いかなる時でも、間をおかず報告せよと命じてあるため、昼夜を問わずに馳せた戦塵を、そのままにまとっているようであった。しかしその夜、その者が持ち帰ったものに、ベルンはことの真偽をはかりかねていた。
「……ゾーイだと?バルバジアのゾーイか?」
一時、王弟軍に与していたミルド族の土豪であった。今は戦線を離脱し、自領から動こうとしていない。ユリウスに加担していたのは、人質をとられていたためと弁明しているが、ベルンは二枚舌を疑っている。当然、ベルンをはじめとするアンドレードの首脳部たちに腹をみせようとはしない。
不審げに、ゾーイより差し出された密書に眼をとおす。白眉がひそめられ、そして顔色が変わった。
「まさか……!」
瞼が閉じられ、深い沈思に入ったが、数瞬のことであった。ふたたび開かれた眼は、そこに仇敵でもいるかのごとく、天井をねめつけた。
「……おのれ、辻褄があいおったわ……支度をせよ、王宮へ参る」
当直の者に声をあげると、密書をたずさえてきた間者に、間を惜しむようにせわしなく訊ねた。
「ゾーイは何と云っておった」
「王弟殿下がエウラリーアへおもどりになる時には、すべての手はずが整っているはずだ……と、そのことをお伝えせよと」
「いかん!」
ベルンがうめいた。ユリウスの撤退は今夕、早馬が伝えてきた。家人を急いで呼びよせた。
「……モルに伝令を出す!ユリウス殿下をエウラリーアへもどしてはいかん、何としてでも阻止せよと!王派のカスバルの土豪たちにも、臨戦態勢をとらせよ!ありったけの早馬を使え! 」
召使たちが着替えを持ってくる。ベルンの命を受けた者たちは、あわただしく走り去っていく。
「陛下にもお起き願うように先発して伝えよ、大至急だ!」寝着を脱ぎ去りつつ、矢継ぎ早に指示をくだす。「ブレア将軍とエカードには東方の警戒を強めるように伝えよ、すべて私の独断でかまわん!イシュトールの名にかけて、やつらの思惑どおりにはさせぬぞ!」
(つづく)
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