【Ⅺ】
ホントの一角にあるその屋敷は広大ではあったが、貴族のそれのように無駄な装いはなく、質実さがそのまま形となったようであった。広大であったのは人の出入りの多さゆえであり、屋敷全体にはかぐわしい汗と武具のにおいが染みついていた。
新帝の即位にいまだすがすがしい初冬空気の中、ひと組の師弟がその屋敷を訪れたのは、もう正午に近いころあいであった。普段は多くの門人で賑わっているが、その日は広々とした屋敷には人の気配がない。代わりに、驚くほど多くの猫がいた。門を入ってすぐの陽だまりに3匹が団子になって寝ており、師弟が家人に道場へ通される間に石柱の影から、貴婦人のような黒猫が悠然と歩いてきたかと思えば、露台に出された寝椅子の上では、さまざまな染料をひっかぶったかのように騒々しい毛色がふてぶてしく毛づくろいをしている。人間よりもよほど大きな顔をしている。道場で両者を待つ屋敷の主人が、捨てられたものをひろってきて、好んで世話をしているのだ。
屋敷の主は角ばった顔、重たげな眉の下の眼は細く鼻も口も太い。頭髪は後退し、わずかに後頭部に半白をのこすのみであり、その容貌は平凡な村夫子じみたものであった。しかし中背ではあったが、そのたたずまいは地に根が生えたかのような重みを感じさせ、身体全体が柔らかくも頑健なよろいをまとっているかのようである。
「久しいな」
屋敷の主人、“神剣”マラキアンがおだやかに笑いかけた。
「10年ぶりか……」ヌアールの“剣聖”クマラも、微笑みつつ応える。「これで3度目になるか」
「お主、いくつになった?」
「65だ」
「私は60だ。お互い歳をとった。おそらくこれが最期であろうな」
“神剣”と賞せられるマラキアンの名を知らぬ者など、この都にはおらぬ。籍も持たぬ下人街や流人街の餓鬼ですら、一度はその名を耳にしたことがあるだろう。皇帝の近衛として与えられる最高位“獅子心騎士”とともに、もっとも名高い剣士のひとりである。市井の剣士として生きながら、かつて皇室の剣術指南も務め、諸侯に匹敵する従四位の位を与えられている一事をみても、この人物がホントにおいていかなる重みをもっていたかがわかるだろう。
マラキアンはクマラの傍らの青年に眼を向けた。黒髪で長身のその青年は、まぎれもなく即位の日、クマラとともに群集の中にあって各国の馬揃えを眼にし、そしてまたビルドの演武会でネロスやアザトースト対峙した者である。本日は神妙な顔をしてひかえている。クマラがその名を口にすると、屋敷の主は感嘆の声をあげた。
「ほう、そなたが先日のクロシア公の演武会で、7人抜きをしたという?」
道場内にはマラキアンの他にもうひとり、剣士がいた。
「先日ホントに立ち寄ってな、本日の立会いを頼んだ。リーグと云う」
「リーグ……まさか“大地の騎士”……?」
紹介された剣士は小さくうなずいた。“剣聖”と呼ばれるクマラですら、威儀をただした。“大地の騎士”リーグはベルセーヌ大陸を渡り歩く放浪の剣士であり、その名はヌアールの彼の元へも届いている。南方ではあまたの領主や国主が、その指南を受けている。仮にその居をホントにでも定めれば、今ごろはマラキアンやピウスに並ぶ名声をもえていたに違いないが、ついにそれを求めることはなかった。栄達よりも自由を選んだ剣士である。
マラキアン同様、村夫子じみた風貌である。釦留めの上着と野良着と云ってさしつかえないズボンは、よく手を入れたものであったが、きわめて粗末なものである。顔の下半分が濃い灰色の髭におおわれ、顔色は陽と旅の風に練りあげられていた。だが長い眉の下の眼は、マラキアンとクマラ、ふたりの高名な剣士を見すえて、微塵も揺らがなかった。
剣士の傍らには、まだ10にもなっていないと思われる少年と少女が屹立している。ともに南方の出身と知れるあさ黒い肌をしており、少年は漆黒の、少女は亜麻色の髪をしていた。兄妹かとも思ったが、顔立ちはまるで似ていない。少年の名はアト、少女はジルと云うが、ふたりがこの物語に登場してくるのは、まだずいぶんと先のことである。今はまだリーグの後ろをついて歩く雛鳥のようなものであった。
道場の中央まですすむと、マラキアンが抜剣する。クマラもうなずくと、同様にすすみ大刀を抜く。道場の壁際にはリーグと少年少女、そしてザフィールがひかえている。
両者はともにゆったりと構えると、そのまま微塵も動かなかった。道場内に静かな剣気が満ちる。ザフィールの身体は、金縛りにあったかのように動けなくなった。眼前の対峙が、とてつもない彼方でのことのように感じられた。
「お師匠様、まだはじまらないのですか?」
黒髪の少年が、けげんそうな小声でリーグに訪ねた。少年の眼には、ふたりがただのんびりと構えているようにしか見えなかった。誰かが開始の声をかけなければいけないのだろうか?
「はじまっとるよ、もう」
リーグはふたりから眼を離すことなく、おだやかに応えた。どこか遠くで猫の鳴き声がしたようだ。
……どれぐらいそうしていただろう?道場内に満ちていたある種の空気が、ふ、と消えた。
「……あ?」
不意に、リーグにしたがっていた亜麻色の髪の少女が惑乱の声をあげると、呆けたようにその場にへたりこんでしまった。少女の名を呼んだ少年も、立たせようとしてしゃがみこんだまま動けない。気がつかぬうちに、ふたりとも腰がぬけていた。
「お……お師匠様?」
「ふたりとも、今日のことはよく憶えておきなさい」
うろたえるふたりに、リーグは物静かに語りかける。少年と少女は上気した顔で師を見上げ、呆然とうなずいた。ザフィールの顔色も蒼白であった。さすがにふらつきもしなかったが、額に脂汗がういている。涼しげな顔をしているリーグに、剣士としての差を感じた。
結局――両者はただの一合も斬りむすぶことはなかった。しかし極致にまでいたったふたりの剣士の間には、無限とも云える剣の交錯の光芒があった。対峙の中にすでにそれは収斂していた。
クマラとマラキアンの剣はもう鞘に納まっていた。
信じがたいことであったが、夕刻となっていた。2コーツほどもたっていたのだ。ザフィールや少年たちに四半コーツほど……否、ほんのわずかな呼吸の間ほどにしか感じられなかった。
道場の入り口で、先ほどの黒猫がいつの間にか座り、じっと人間たちを見ていた。
「さて帰るとしよう。次はまた10年後か?」
「はは、お互い生きているとよいがな」
両者は並んでもどってきた。談笑するその様子は、先ほどまで剣を突きつけあっていた間柄とはとても思えない。だがマラキアンは酒でもどうかなどとはあえて訊ねなかったし、たとえ誘われてもクマラはうなずかなかったであろう。
マラキアンの屋敷を退出すると、冬の陽はもうほとんどかたむき、影が長かった。たそがれの染み入るような冷ややかさが落ちてきている。
「お師匠、世の中は広いです……このホントにきてからというものの、私の胸は高まりっぱなしです」
黙然と歩をすすめていたザフィールが、不意に前方の師に語りかけた。
「やれやれ、子どものようなことを云われる」
苦笑するクマラ。その相貌には、いつの間にか深い陰影が生じていた。マラキアンの屋敷をおとずれた時にはなかったものだが、ほとんどの死の色に近かった。それだけが、ふたつの大陸で最高とも云うべきふたりの剣士が、その日誰にも知れずに試合った唯一の証であった。
「このひと月あまりに眼にしてきたもの、耳にしてきたものは、私の世界を広げてくれました。私は決して忘れません――お師匠、そろそろヌアールにもどります」
「ふむ、ようやく片眼が開いたようだな。よかろう、私が剣の師として教えるのもこのあたりまでだな……」立ち止まり、クマラは若き弟子を見すえ、しばし沈思していたが、やがて言葉をつなぐ。「お主はこれから剣士としてではなく、もっと厳しく憩うことのない道をすすんでいくことになるだろう。その覚悟はおありかな?」
ザフィールは抱拳して深々と一礼する。
「祖父がその道を歩んできたように、これは私の宿命ゆえ」
面をあげた若者の顔はいつか剣士のそれではなく、まぎれもないヌアールの若き後継者、王子サヴァードのものとなっていた。
(つづく)
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