【Ⅲ】
新帝の即位は、つつがなく厳粛に執りおこなわれた。
その後新帝は、宮の露台から大広場の群集の前に姿を現し、興奮と感動に身魂までとらえられた何千何万もの群集のどよめきと歓呼の声は、轟々と冬空をゆるがした。
ここにふたつの大陸の半ば以上を支配する、巨大な国の新しい主が誕生したのを、ホントびとたちは感じたのである。
宮廷内でその後、国内外の諸公や特使らを招いた、祝賀の宴が執りおこなわれた。皇宮内でももっとも壮麗で、かつて美姫と謳われた皇妃の名を冠するフェレディエーレの間は、はるか彼方の主座がかすんで視認しがたいほどに広大で、上方を仰げば陽光をとり入れるための天窓と、それを遮らないために複雑にも繊細に組まれた梁がはりめぐらされ、その様はまるで天界の宮が光臨してきたかのようであった。
男たちは礼服に身をかため、婦人たちは美しく髪をゆい上げ輝くドレスをまとい、笑いさざめくその様は、あるいは天界の宮か、虹の都か……全土からつどった皇族、王族、諸公、貴族、百官、さらには周辺諸国からの祝賀の特使たち、3000人をこえる賓客のさざめきが、フェレディエーレの間に低いどよめきとなって響きわたる。
手にした銀杯の中では、殿上びとの舌を楽しませ胃を満たすために、そよぎを感じさせぬ風のような給仕人たちに供せられた、彼らひと月分の人生よりも高価な、深紅のあるいは黄金色の酒精がとろりと揺れる。
皇宮の外にいる群衆とはまったく異なる階層で構成された特別な人の群れは、欲望や傲慢さを高貴な笑顔の下に上手に隠しつつ、同じ身なりの麗しい群集の海を、彼らのような者たちだけが、幼少より身につけている素養でもって、白魚のようにしなやかに華麗に泳ぎわたる。
主座にもっとも近い場所で、ひときわ大きな人だかりとなっているのは、新帝とそのとりまきである。帝国の中枢たる皇族や大貴族たちにかこまれ、諸侯や諸国からの特使の拝謁を受け、まるで周囲から光をあびているように見えるのは、まさに即位したばかりのユスティアヌス4世であった。
馬車に揺られて祝賀の式典からの帰途、ハデスは寡黙であった。それは馬車の周りを騎馬で従うネロスが、眉をひそめるほどである。前方を祝賀の正使である大使の馬車が、正規の騎士たちに警護されつつすすむ。一行は戴冠にうかれる都の空気をかきわけるようにして、帰路ににあった。馬車の中にあってなお、あちこちであがる花火の音は聞こえるし、うかれさざめく都びとの歓声も響く。
大使館にもどってからも、ハデスはむっつりとおし黙ったまま、私室へもどった。ネロスも後につづく。室内で上着を乱暴に脱ぎ去り、窮屈な正装の襟元をゆるめると、ふてくされたように寝椅子に身を投げ出した。
「ずいぶんとご機嫌が麗しゅうないようで?」
「う……ん?」
不機嫌そうにうめくハデスであったが、歳かさの傭兵は、そこにそこはかとない、自身でも自覚しているのかしていないのかわからぬ、甘ったれた気配を感じた。やれやれとネロスは思ったが、訊ねてみることにした。
「どうかしましたか?」
「つくづく思った……」
ややもったいぶって、少年は応えた。
「何をです?」
「イーステジアの国力のすさまじさを、改めて眼の当たりにした」
少年の脳裏では、その日催された戴冠の儀とそれにつづく祝賀の宴が、今もまだきらめいていた。かの宮が石や木でできているのではなく、宝石や白銀で建造されていると告げられても信じてしまいそうだ。それはイーステジアという国の、辺境の王子になど見とおすことすらできない、信じることすらできない山脈のごとき権力と財力の一端であった。公使としてこれまで何度も訪れた百曜宮であったが、今日彼に見せた装いは、けたが違った。歳若いハデスは、そのすさまじさ圧倒されていた。
ネロスは器用に片面をゆがめてみせた。その国力の威勢を見せつけるのも、この戴冠の儀や祝賀の宴の役割でもあるのだ。他愛もなく呑みこまれましたなぁ……とでも云いたげな皮肉な表情だった。
ちなみにハデスの従者として皇宮の中にまで入りこむことができたネロスは、広間とは異なる武者溜に詰めさせられていたが、ここでも上等の酒肴がふるまわれている。しかしとびっきりのすれっからしの傭兵にしてみれば、意識しているのかしていないのかはわからぬが、いかにご大層なもてなしであろうと、居丈高で圧倒しようとしている雰囲気は感じとれる。
その表情に気がついて、ハデスは弁明する。
「私だってわかっている。あれは帝国の示威行為ということぐらい……しかしそれでも、やはり眼の当たりにすると、イオなどまるで話にならないということを、心底思い知らされる……恐ろしい」
正直に心中を吐露する。その顔は蒼白であった。彼は王子である。いつかは国の執政のひとりとなる立場である。彼が自国とひきくらべてしまうのも、無理からぬところである。
「ネロス、イーステジアとその他の諸国との国力の差がどれほどのものか、知っているか?」
「いや」
「イーステジアが20としたら、後の諸国を全部合わせても、せいぜい1がいいところだそうだ。いいかネロス……イーステジアとイオが――じゃないぞ。イオと……それにヌアールやラベリアナやエンブローシアなどの諸国まるまる合わせて、それでもやっとイーステジアの20分の1しかないんだぞ!」
腹立たしげに、しかしどこか自嘲ぎみに云いはなつハデス。ますますだらしなく、寝椅子に身体の重みをあずけるように沈みこんでいく。
「実際のところ、イオは当面の相手、クロシアとしのぎをけずるだけで四苦八苦している状態なのに……」
「う~ん……」
ネロスはこまったように髪をわしわしとかきあげた。今日ばかりはと、きれいになでつけさせられていた、くせのある黒髪が乱れて、いつものように不敵で荒々しいが、どこか飄然としている傭兵の顔となった。
「俺はあんたたちは立場が違うからなぁ……何て云ったらよいか……」
「……何だ?」
「……むずかしく考えすぎじゃないのか?国力だの何だの云ったところで……最期にかたをつけるのはいくさだ、剣力だ。眼の前の敵を思いっきりぶん殴る――結局それだけじゃないのか」
「な……」
思わず身体をおこしたハデスは、しばし傭兵の顔を凝視していたが、やがて……度しがたい――とでも云いたげに顔をおおうと、大きな嘆息とともに肩の力をぬいた。
「……ネロス、お前は単純でいいな……」
毒気をぬかれた表情で、呆れたようにつぶやいた。ネロスは脇卓の酒甕をとりあげると、酒盃に満たした。殿下の部屋にはさすがによい酒が置いてあるな――などとむだ口をたたきつつ一息に干す。
「単純?ばかばかしい。空が落っこちてきやしないかと年がら年中心配して、飯ものどを通らずに、最期はとうとうやせ細って死んじまった阿呆な男のおとぎ話でもあるまいし」
通常でも遠慮のない口調が、その日はいつにもましてぞんざいであった。
「ばかばかしいとは何だ、無礼な奴だな。子どものけんかじゃないんだぞ!」
歳若い王子は、口げんかならば買ってやるぞとばかりに語気を強め、座り具合を確かめるように身体を揺すった。しかししたたかな傭兵は、やんわりとそれをかわす。
「けんかはけんかだ。20対1だろうが、100対1だろうが関係ない……第一殿下、イーステジアがイオの何十倍も兵を動員できたとしても、そのすべての兵が、国を空にしてイオに攻めかかることが現実にできると思いますか?」
「……え?」
虚をつかれたように、ハデスはネロスを見上げた。口調も慇懃なものにはもどっているが、人の悪そうなにやにや笑いが傭兵の口元にあり、ハデスは変に落ち着かない奇妙なものを見るような気分でそれを凝視した。
そんなハデスの様子に、ではまた明日――と笑いながら、ちゃっかりと酒甕を片手にネロスは退室していった。
ひとりになった部屋でハデスは寝椅子に座りなおすと、酒精にまだかすかにほてって弛緩している頭で、今彼の従者が云ったことの意味をいつまでも考えていた。
(つづく)
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