羽毛がつめられた夢のように柔らかな枕を手にとった。いぎたなくいびきをかく皇帝の胸に乗る。げっぷのような音が筋張ったのどから、かすかにもれた。
少年は手にした枕を、老いた皇帝の顔面に押しつけた。
枕の下ではいびきはくぐもった音となる。大きく息をひとつふたつつくほどの時がたち、くぐもったいびきが不意に止まった。代わりにうめくような声がもれ出し、それがとぎれずに長々とつづく。うめき声だったものが、はっきりと苦悶の声となった。
が、少年は微塵もとまどうことなく、その手をゆるめることはなかった。無表情に枕を押しつけつづける。少年は掌の下の豪奢な枕の中へ押しこめようとする。瞳は冷たく冴えたままだ。
節くれだった指は地獄の餓鬼のごとくにねじ曲がり、胸元をかきむしろうとして寝着の前を大きくはだけると、あばらの浮き出た貧相な胸があらわとなった。
枕の下から何かを断ち切るような甲高い声がもれ、その胸がひとつふたつ大きく隆起し、そして今度は自身の重さをささえきれないかのように、その身は寝台に沈みこんでいった。
そのままの姿勢で力をゆるめず、ゆっくりと口の中で100まで数える。
何もおきなかった。一度動かなくなった身体は、やはりそのままだった。
そっと枕を取り上げてみると、苦悶の表情そのままで時を止めた老皇帝がそこにはいた。血走った眼球は自らの脳天の裏側をのぞこうとするかのようであり、枯れ木のようであった老いた身体からは、のびきった舌とともに精気がことごとく流れ去ってしまったかのようだった。たった今まであがらい生きていたはずなのに、すでにその身体には寸毫の水気も生命の証もみとめられない。
ねじ曲がった指を、1本1本伸ばしていく。硬直しているようにみえて、少年の力でも容易に伸びていく。
不意におかしくなった。こらえきれない笑いが胸元からくつくつとわいて出た。
それがしょせんあの老人の本当の力にすぎないのだと、少年は冷たく想う。死に臨んでなお、この程度の抵抗しかできなかった。自分に死をもたらそうとした少年の身体に、一筋ほどの傷をいれることすらできなかった。まるで影絵の人形ほどの非力だった。
このような男が、ふたつの大陸のほとんどに君臨する椅子に座していたのだ。滑稽としか云いようがない。
少年は“それ”をひどくつまらないものを見るような眼で見下ろしていた。実際さほどおもしろくなかった。自分は何とつまらぬ秩序と権力と呼ばれる無言の力に従わざるをえなかったのか、莫迦々々しくてしかたがなかった。
死んでしまえば枯れ木にも劣る分際で。
春の過ぎ往きしその夜に、広大な版図の隅々にまで根をはった巨大な老樹は朽ちはてて、今や一片の枯れ木よりも価値のないただの屍にすぎなかった。
さてどうしようかと考える。燃やしてしまえれば快感だろう。枯れきっているから火のつきは抜群であろうが、何の役にも立たぬ。
別に憎くてやったわけではない。だらしなく寝台に横たわるその身体を見ているうちに、殺したら楽しいだろうと思ったにすぎない。実際は意外に心がはずんだが、動かなくなったら途端につまらなくなった。それに少年の殺意に抗する力の弱さも、期待はずれもよいところだった。せっかくなのだから、もっと殺しがいがあってもらいたかった。
見れば、押さえこんでいた枕の覆いに、掌ほどの嘔吐の跡があった。覆いをはずすと、枕自体に汚れはない。絹の覆いを夜着のかくしに押しこんだ。
老人のはだけた胸元を整え、布団を肩までかける。開いたままの眼を閉じようかとも考えたが、このように苦しんだ表情をさらしてやるのもおもしろかろうと意地悪く考え、そのままにすることにした。はみ出した舌も同様だ。
嫌悪はない。むしろ楽しいくらいだ。鼻歌さえもれていた。
最期に枕元の脇卓の上の手洗いで丁寧に手を洗う。酒がまだのこる酒盃に口をつけた。
寝室の扉を開ける。老人が何者かと同衾する夜、控えの間はさらに次である。
「たれか在る!」
少年が叫ぶと、控えの間からふたりの宦官が腰をかがめるような姿勢で進み伺候する。寝室の扉前で、深々と一礼する。
「陛下のご様子がおかしい」
息を呑み、少年の脇をすりぬけて皇帝の寝台へと駈けよる。白眼をむき、ねじくれた舌を長々と突きだした尊顔を眼にして、宦官たちは悲鳴をあげた。
「陛下、陛下!」「おつむを動かすでない。脈をとれ!」「――早く侍医を!」
顔色を変えたふたりは、慌てて寝室から駆けだした。少年のことなど、もはや眼中にもない様子だった。少年はふたりが跳びだした扉を冷たく見すえた。
* * *
――やがて、混乱がおとずれた。
「陛下のご容態が……」「おいたわしい限りにございます。お眼の光はなく気脈は完全に失われ、心の臓も動いてはおられませぬ……ご蘇生の見こみはございませぬ」「ええい、陛下はご快癒にむかわれていたはずだ、なぜこのように突然に……」「いかに陛下といえど、ご高齢でございますゆえ、やはり御玉体の……」「心の臓の発作ではないかと……」「侍医らの責はまた別に問う!今はともかく……」「誰か宮内長官へご連絡を!ご指示をあおぐのだ」「女官長を呼べ!女官どもは何をしておる」「急ぎユスティアヌス様をお呼びいたすのだ、東宮に使いを出せ」「参与の方々にお報せは……」「いかん、どのような混乱が……」「……このことはまだ内密に」「後宮の出入りをただ今より禁ずる。衛兵に伝えよ」「おぉ……おいたわしや陛下……このようなお苦しみとは……」
誰もが恐慌をきたした声で、賢帝の名を、そして何者かの名を呼ぶ。
少年は寝室の隅の椅子に、一見放心したかのように座している。その見かけとは裏腹に、騒々しく跳びまわる近習たちを、嘲るように観察していた。このような老人ひとりが死んだだけで、大の大人が右往左往する。この者たちは何と愚かなのか。
少年は何度かその夜のことを訊ねられたのみであった。曽祖父に呼ばれて寝室をうかがった。しばし話をしていたが、やがて寝台に横たわった陛下の容態が急変した。真実とは云いがたかったが、まったくのうそでもない。誰もが少年が呼ばれた理由を察しておりながら、誰も口には出さなかった。見ないふりと知らんふりの芸の極致がそこにあったようだった。
誰かが寝台の枕に覆いがないことに気がついたなら、そして少年の身を調べ、かくしに押しこまれた絹を見つけ出したならば、話はずいぶん変わっていただろうし、ある意味単純なものになっていたかもしれない。
しかしその危険を予測しつつも、少年は何ら措置をとらなかった。身を護ろうという意識は、自分でも呆れるほどに希薄だった。
「ヲリアヌス様はこちらへ――」
誰もが気にもとめなかった少年の手を引く者がいた。ほう……と感心をしたが、彼の者はただの好意であった。だが彼の者を含めて、その場にいた誰もが少年に気をまわすことなく、そして悲劇かそれとも喜劇かはわからぬその一幕は、永遠に失われた。10いくつの少年が、老いたりとはいえ、大の大人である皇帝を窒息させるなど、いくら何でも彼らには想像すらできなかったのだろう。
寝室よりかなり離れた予備の寝室に少年は通された。後宮にはそのような間は、数えきれないほどある。その間にも、後宮の仕え人たちのあわただしい行き来とはち合わせた。皆一様に狂騒にあった。
少年のための新しい居場所は、このような場合でもまったく遺漏なく寝台は整えられ、暖炉にも火は入れられ、脇卓には温められたシドラ酒が満たされた酒壺と杯、乾燥させた果実などが乗っていた。さすがに少年も感心をした。
清められた寝台に身を投げ出す。心地よい疲労が、少年の身体を満たしていたが、不思議と眠たくはなかった。かくしから絹を取り出し、しみじみと眺める。さて、どうしようかと考えた。
これ一枚で歴史は変わる。身を探られ詰問されたら、彼としてはうそをつきとおすつもりはなかったし、今もその気持ちに変わりはない。ただ誰も訊ねなかっただけだ。もし露見したならば、彼の名は汚名を着せられ、しかしおそらくは事実ともども闇に葬られるだろう。皇宮とはそのような底の知れない、どす黒く深い深い闇を数えきれないほどに持っている。その闇に眠る名は、永劫に光の元へ表れることはない。
それもおもしろい――と考えていた。運命を司る老神パーンの裁きがどのようなものであれ、従うつもりである。不思議なことにその時の少年は、傍観者の気分であり自分の行為にまるで頓着していなかった。ありていに云えば、あまりに無責任であった。
扉ごしにかすかに喧騒が伝わる。長い間、まんじりとすることなく時をはかっていたが、その喧騒は静まることもなければ、高揚することもなかった。たが気色悪くうごめいているだけだった。
誰も少年の元へはやってこなかった。身を起こすと、窓から外の気配をうかがう。いつか夜が明けようとしていた。少年は舌打ちをした。
部屋には鍵もかかっておらず、見張りがいるわけでもなかった。無用心なことだと苦笑した。部屋々々をぬけていき、回廊を渡っていく。所々には緊張の面持ちの衛兵たちが歩哨していたが、誰も少年の顔を知っており、とがめる者はいない。慌しく走りまわる宮人たちも、少年にまでは気をくばることはできない様子だった。
後宮を出る。すでに東の空が明らみはじめていた。夏月に入ったばかりではあるが、やはりこの時刻は肌寒さを感じさせる。
振り返ると、別に誰も後をつけてきてなどいなかった。宮の外から中の静かな喧騒はわからないが、どこか殺気立った気配を感じるのは、気のせいであろうか?
少年は歩みを進めた。宮の周辺をとりかこむうっそうとした木立はそのまま堀辺までつづいていた。夜露が冷たい。静かに堀の水はひとつの方向へと向かっていた。底の見えないゆっくりとした流れだ。
少年はしばしその流れを見つめていたが、やがてかくしから例の薄絹を取り出した。老人の吐瀉物の跡は、もうすっかり渇いている。
その時ふと見やると、堀を隔てた向こう側にひとりの少女がいた。自分よりいくつか歳上だろうか、実に粗末な身なりで大きな洗濯籠を背負い、くすんだ焼煉瓦色の髪をしており、眼も口も大きく開き呆然と自分を見つめていた。自分がそんなに珍しいのかと想う。
自分がこれからすることを目撃しているのが、実は彼女だけだという事実が、ひどくおかしかった。指をゆるめると、薄絹はひらひらと舞って、水に落ちた。少女が声をあげた気配がわかった。身をすばやくひるがえし、身近な樹の背に隠れる。低木ばかりであったが、少年の身体を隠すには充分であった。陰からこっそり見ると、堀の向こうで少女が駆けだしていた。流れていく絹を追っかけているのだろうか。
少年はおかしかった。追っている少女の必死さもさることながら、自分が消し去ろうとしたものの正体を、あの少女は知ることがあるのだろうか?いや無理であろう。たとえ追いついても彼女にはそれが何であり、どこで使われたか、そしてなぜ捨て去られたのかを知ることなど決してないだろう。
少年はもはや少女のことなど振り返りもせずに、後宮へともどる。
昨夜はずいぶんな騒動だったから、腹がへっていた。朝食を準備させようと思った。まずは舌がやけどするほどの熱い茶。それから薄切りのピィンに豚肉を煮たものをどっさり、甘辛いたれをつけて食べよう。羊の乳を固めた酸っぱいカシウス、彼は青かびの生えたくさいやつが好みだった。最期は新鮮なデーツ。考えただけで、生唾が出る。彼がその手で命を絶った老いた皇帝のことなど、少年の旺盛な食欲の前ではもはやどうでもよかった。
(了)
(前編)・(後編)
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