【Ⅴ】
「マール、せめてお前だけは私を人形あつかいしないでくれ」
ハデスの声は自然と硬くなっていた。
「申し訳ありません、いらぬ気遣いでございました」深々と下げた頭を上げた時、すでに老臣の瞳には硬い光が宿っていた。「……殿下、私が王弟殿下に従ってはならぬと申しました理由は、まず先ほどのように殿下に叛逆者の汚名をきせぬためでございます。実の子である殿下が従わねば、王弟殿下に通じる者も二の足を踏むことでしょう」
マールは言葉を切った。ハデスは眼で先をつづけるようにうながすと、うなずき再び口を開いた。
「……そしてふたつめの理由ですが……王弟殿下には王となる資質がございません」
「……」
「何を以って王たる資格かは、今は申し上げません。それは単純ではございませんし、明快でもございません。ですがその地位にある者には、ふさわしき責任と覚悟が必要でございますし、自然にそなわるものでございます。しかし……王弟殿下には、それがおありになりません……」
「わかっている、私にもわかっている」
ハデスは首を振った。特に落胆もしなかった。それは彼自身感じていることであった。あの肉人形のごとき実の父を想いうかべて、暗い気分になる。
「父は……愚かな夢をみているのだ」
ハデスの父とその兄である現王との確執は、すでに王が太子であったころから数十年にわたりつづき、弱まるどころかここ数年は、さらに危険をはらんだものとなっている。その原因は先王が兄よりも弟を後継にのぞんでいたと、口さがない者は噂するが定かではない。先日までのカイネウスもそうであったが、このあたりどこの家でもお定まりの根暗いやっかいごとなのであろう。
誰かにけしかけられているのかいないのか知らぬが、王弟は不遜な発言や行動を繰りかえし、王権への不服従を顕にしている。
ハデスも世の噂を知らぬわけがない。だがあまりにも莫迦々々しすぎる、つまらぬ裏読みをしすぎた軽薄な話としか思えない。父を知るハデスの答えは明瞭であった。
(父が王になれなかったのは、ただ単に劣っていたからにすぎない)
にもかかわらずその地位に恋々とするなど、少年から見てさえ、あまりに愚かしい父の行為である。愚かにもかかわらず、否、愚かであるがゆえに、自身がその地位がふさわしからぬという単純な事実に想いいたらぬ。のみならず現王はその資質もなしに、その地位にある僭称者に見えてしまう。
まさしく愚かな夢に、頭の先までどっぷりとつかっているとしか思えない。その夢の中でなら、どのような現実の不満でも心地よく癒してくれる。とりまきのお愛想など、見え見えのお追従にすぎないのに。それを本気にする方が信じられない。
そして現王もまた当然、この思い上がった弟に悪感情を持っている。ただの兄弟ならば問題もなかろうが、困ったことに、この両名は一国の王とその弟であった。
「いかにも……」マールが重々しくうなずく。「しかし殿下を支持する者がいるのも、また事実です。どこかにたきつける者がいるのだろうとは思うのですが、事態は最悪です」
「やはり戦に?」
先ほどと同じことを訊ねてしまった。
「十中八九は、まず間違いなく」
マールの応えは今度は明瞭であった。
「そこまで……」
深い嘆息が出た。
「私も回避する方策を探ってみますが、少なくとも王弟殿下側が大幅に譲歩しなければ、困難かと……殿下もお覚悟をなされておいてください」
「もし陛下へ剣を向ける羽目になった時、マール、まさかお前は……」
「私は王弟殿下の臣下でございます。どのような場合でも、その責をはたすつもりでございます」
マールは翳のない表情で、おだやかにそう云った。
「マール!」
「殿下は決して陛下に叛かれませぬよう、くれぐれもお忘れくださいますな。そしてこの話は決して口外なさらぬように」
「……マール」
ハデスは言葉を失った。マールは歳若い主に、年長者の落ち着いた笑みを見せつつつづける。
「ご案じなさらないでください。何とかこの危難はのりこえてみせます。王弟殿下もものごとの理非はわきまえておられましょう」
さて……と言葉をつぎ、マールは話題を変えた。
「もうひとつ、私がホントを去って後、この者を常におそばにお置きください」
今までその男が室内にいたことは感じとることができなかったが、その瞬間、途端に男の大きさがきわだって、部屋の中を覆うほどになった。これほどの大きさの男が今の今まで室内にいたことを感じとることができなかったとは、不思議なことである。
「……何者だ?」
「ネロスと申します。傭兵です。これからの身辺警護を任せました」
「私のかッ!?」ハデスは思わず叫んだ。「そのような必要は……」
「ございます!」マールの表情はこれまでにないほどに真摯であった。「こればかりはご承諾くだされねばなりません」
その一言が、ハデスの抗議を抑えこんだ。ネロスがマールの背後で愉快そうに眉を上げた。しばし憮然とマールをにらみつけていたが、いやいや口を開いた。
「……それほど事態は切迫していると、お前は見るわけか?」
「いかにも。ここは狐の巣穴のようなものでございます。お身を護る者が必要です」
「お前が帰国するのはやめられぬのか?」
不安げに問うが、マールは首を振る。
「できません。状況は複雑です。そのような簡単な問題ではございません」
「……マイルズが不意に帰国することになったのも、その一環なのか?先日から姿も見せずに、今日いきなり帰国することに決定したと報告がきた。奴はホントにふた月ほど前に着任したばかりだ、妙ではないか」
「……申し上げられません」
――この件につきましては、決して殿下へお知らせくださいますな。マール様のご裁量で、なにとぞ収拾されてくださいますよう、お願い申し上げます……
一包の毒薬を彼のところへ持ちこんだ、あの聡明な瞳を持った少女の言葉が脳裏によみがえった。命を賭してマールへ訴えた彼女との約定は護ってやりたいと思うし、護らねばならないと思う。それから先は恫喝、調略、妥協。大人の汚れ仕事だ。
「この者の腕は申し分ございません。殿下の従者とするよう手配をしております」
ハデスはネロスと呼ばれた男を凝視する。彼には突如紹介されたこの男が、得体の知れないものに思えてしょうがない。口調がきつくなった。
「必要ない。どうしてもと云うなら、大使館内の兵を配属しろ」
「それはできません。今やいつ誰が敵にまわるかわかりません」
「この男なら心配ないと云うのか!傭兵と云ったな。金で雇った者なら、金でころぶ。違うか?」
「あたり」ネロスはからかうように笑う。「所詮俺たちはそんなもんだと思ってもらえば結構」
「マール!このような男はいらん!」
立ち上がりざま、ハデスは激昂して叫んだ。ネロスは肩をすくめ、普段にはないハデスの憤りぶりにマールは驚き、眼をむいた。
「殿下、この男は役に立ちます」
「いらんと云ったらいらん!何だこのような無礼者、こんな奴信用できるわけない!」
「この件についちゃ、ずいぶんと積まれているんですよ。もらった分の働きはしないと、こちらの信用問題だ」黒髪の傭兵がにやにやしつつ云う。「まぁそのあたりは信じてもらうしかないですがね。前金がもったいないから、使ってみちゃどうですか?案外使い勝手はよいかもしれんですよ」
「金、金、金と何てがめつい奴だ!」
「ネロス、お主もふざけるのをやめてくれ……」
マールは苦虫をまとめて噛みつぶしたような表情になった。ハデスは腰に手をやり、頭ひとつはでかいネロスを傲然と見上げる。
「ホントを離れましたら私は二度と殿下にお眼にかかることができぬかもしれません。どうか私の遺言と思ってお聞きいれください」
マールは謹厳に云うが、ハデスが腹立たしげに応える。
「莫迦を云うな、勝手に死ぬことは赦さぬ」
「殿下には、お身を護る者が必要です」
「必要ない」
「いくら王子の身を護っても、毒などもられたらどうしようもないですな」
「だからネロス!お主もいらんことを云うな!」
「はいはい、マール殿」
「見ろマール!こんな無礼者を我慢して傍に置けと云うつもりか!」
「いや……私も少々早まったかなと……」
「あなたが云わんでくださいよ」
「とにかく私は、お前など信用しない!」
憤然と叫ぶハデス。なぜかこの傭兵を相手にしていると、いつにないきつい感情がわき出て声を荒げてしまう。バインセオから別れを告げられたばかりだというのに、まったく……感傷にひたる間もないと少年は思った。
……それがイオの公子ハデスと、南の傭兵“黒い剣”ネロスとの出逢いであった。
* * *
ホントからレーヴルへ向かう一番安い乗り合い馬車に席を買った。屋根もなく背もたれもない、このあたりの百姓が使っていた荷車を利用したやつだ。車を曳く荷馬と手綱をとる老いた御者のくたびれ具合からして、こちらもがたがきたものを流用したもののように思われる。
レーヴルへもどるのであろう書生やたくましく陽にやけている農婦たちとともに、簡単な身の回りの物を詰めこんだ行李の横に自分の身体を押しこんだバインセオは、おだやかな陽気の下、心地よい振動に身をゆだねていた。日よけの笠の下、腰までのびた三つ編みの黒髪が揺れる。
もうとうに香都は彼方に遠ざかり、往来の多い街道をまっすぐ西へとすすんでいく。
懐中はゲイツからちょろまかした結構な金子で、なかなかに温かい。あの伯父貴、しっかりと貯めこんでいた。迷惑をかけられた腹いせにいくらか頂戴してきたが、これぐらいいただいても当然だと思う。文句があるのなら云ってくればよいのだ。いかにイオの王室の金で留学できるといえ、レーヴルでは何かと物入りであろう。あって損はない。
普段は歳の若いものしか買えないが、今日ばかりは懐が暖かいので、奮発して3年ほど寝かせたシドラ酒を持ちこんでいる。いつもの調子で呑むと、四半コーツほどで酒甕は空となってしまうが、今日のところは抑え気味に半日ほどかけてちびちびとやっている。よい陽気だ。
ハデスのことを考える。酒を呑むなとずいぶん小言を云われた。もっと食べないと身体に悪いと。何てかわいらしい人だったろう。同い歳であったのに、やたらと歳上風を吹かせたがり、そういう見栄坊のところがあった。あの少年になぜ身体をゆだねたのか不思議だったが、わからないものがあってもよいと想った……否、感じたことは、彼との関係が初めてだった。だがもうきっと二度と逢うことはないだろう……と心の中でおだやかに結論づけた。
ゆるやかな丘を登っていく。馬車の影が濃い。
まもなく到着いたします――と老御者が荷台のバインセオたちに声をかける。一同は前方に眼を向けた。
バインセオは酒甕をかたむけて、粗末な木の酒盃に最期の1杯をつぐ。黙ったまま眼の高さまで持ち上げた。
がたりと荷車が揺れた。酒盃の中の酒も揺れ、馥郁たる香りも揺れた。丘の頂上にいたった。眼下の木立越しに、灰色の塔がいくつもそびえていた。
学院都市――千塔の街レーヴルである。
焼きしまった屋根瓦が陽光を浴びて、にぶくきらめく。それはまるで陽の光とは別の何物かが輝いているようであった。
新緑が萌える樹々の波の合間に初めて眼にするそれは、彼女のいる場所からまだはるかに遠く、奥深い全貌の一隅をかすかに姿をのぞかせているばかりであった。
バインセオは微笑をし、そして静かに酒盃を干した。
(了)
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