【Ⅳ】
予定通り姪っ子がレーヴルへと発った日の午後、ゲイツの館長室はまたもや不意の来訪者を招きいれることなった。それまで机上の薬包を災厄の元凶のように凝視していたゲイツは、慌てて引き出しにしまいこんだ。
マイルズにはまだバインセオの出立は知らせていない。彼女がレーヴルへ到達するのに充分なように、翌朝知らせるように打ち合わせていたが、彼はもっと遅くてもよいのではないかとも考えている。決断がつかない。要するに怖いのだ。結論は先送りにしたいのだ。
いっそ彼女をマイルズへ引き渡そうかとも考えたが、さすがに姪っ子を犠牲にするのは躊躇われた。
やはりここは、バインセオが云ったとおり、ことの重要さを理解していない彼女が勝手にいなくなったということで押し通すしかあるまい。打ち合わせよりも、もう少しだけ彼女に泥をかぶってもらおう。その分、世間知らずの小娘はまるでわけがわかっていないと、頓挫が何でもないことのように誘導する。できればこのようなことからは手を引きたいし、へたに安易なことを云えば、引きつづいて付き合わされる破目になる。そのさじ加減がむずかしい。
マイルズも怪しむだろうが、確証もなしに15の小娘に危害を加えるような大人気ない真似もしまい。それにレーヴルの院生に手を出すことは、ちょっと面倒なことになる。そのあたりは、彼の本気の度合いによるだろうが、あきらめてくれるのが一番だが……
まったく胃が痛くなる想いだった。
* * *
入室してきたのは大使館の武官の筆頭を務めるマールであった。鈍重そうな相貌であるが、大使館では大使と公使につぐ重役である。
「近日中に本国へ帰還することとなってな、本日は館長殿に別離の挨拶にまいった」
一礼をするゲイツに重々しくマールは云う。
「左様でございますか」
応えるゲイツは腹の中でいぶかしんだ。無論知らぬ仲ではないが、わざわざ向こうからおもむいてくれるほどには親密ではない。堅苦しくつけ入る隙のないうるさ型の彼のことは、苦手であった。帰国するのであれば、むしろこちらの方が他の郷士館の代表たちとはからって、しかるべき席を設けねばならないぐらいだ。
「それとついでと云っては何だが、少々見てもらいたいものがあってな」
そう云いつつ、マールはかくしから何かを取り出した。先日のバインセオといい、昨今の訪問者はみな同じようなことをする。
マールが机の上に置いたのは、小さな薬包であった。
息が止まった。それは彼がバインセオに渡し、再び手許にもどり、ついさっきまで眼前にあったはずのものだった。
(なぜこれがここに!)
めまいがし、部屋全体が一瞬ゆがんで、床へ吸いこまれるかと思った。
「……なるほど。やはり知っていたようだな」
ゲイツの様子を凝視したマールが確信したようにうなずいた。ゲイツは恐怖にゆがんだ表情で、呆然とマールを見つめていた。驚愕したゲイツにマールはマイルズが捕縛されたことを告げた。血の気が引いた。
* * *
およそ半コーツ後マールが退室すると、ゲイツは血相を変えて執務机の引き出しを開ける。薬包は当たり前のようにそこにある。震える指で開封する。中にはほのかに茶色い細かい粉末。小指の先をなめて、ほんの少しの粉末をつけると、おそるおそる舌先に乗せた。
顔が引きつった。ケイシならば舌をさすような味ということぐらいは、彼も知っている。
だがこれは……甘い……?おそらく甘藷の粉か……?
椅子にへなへなと座りこんでいた。口からは力のない笑いが出るばかりである。
「バインセオ……あの小娘、疫病神め……はは、やりやがった……この俺を売って、自分だけさっさと逃げ出しやがった……」
この件については、マイルズが本国へ送還されることでけりがつき、結局表沙汰にはならないらしい。関係者もおおむね不問にふされるようだ。ゲイツにはあずかり知れぬ政治力学が働いたのであろうか?とにかく下手をしたら、彼もまたハデス毒殺の罪をかぶる羽目になっていたのかもしれない。
――告発した者が見当はずれなことをしていたら、今ごろはお主の頸も危なかったぞ――退室まぎわのマールの言葉であった。
力なく椅子に沈みこんだゲイツであったが、胆の冷えた反面むしろこれであのようなやっかいごとに係わりあわずにすむと、重荷を下ろした気分にもなっていた。
郷土館の歳費をちょろまかす程度が関の山の、欲深ではあるが小心なゲイツであったが、保身についてはとことんしぶといのである。
* * *
バインセオと別れて数日後の、マールの帰国も間近であったその日のことを、ハデスは長い間忘れなかった。
自分に与えられた執務室は、ひとつの国がそれよりも気が遠くなるほどにはるかに強く大きな国としたたかに付き合っていくために必要な場所のひとつであって、本来なら相応の者が使うべきであろう。自分がここにいるのは、ひとえに生まれによるものにすぎないということは、よくわかっている。そもそもわずか15歳の若年にして、一国の大使館において、大使に次ぐ地位である公使を拝命することなど、まずありえないことである。
その執務室に武官のマールが入ってきたのは、まもなく夕刻になろうとする頃合であった。マールは父である王弟の重臣職にあるが、元々は直参ではない。ハデスが産まれる以前に現王弟領を拝した際に、王宮より遣わされた。それゆえ、父やとりまく直参たちとは常に一線を画さざるをえない立場にあり、にもかかわらずハデスに対しては父以上の配慮を持ってくれている。
ハデスがホント付きの公使となる際も、すすんで武官として配属を強くのぞんだ。本国の眼の届かないホントにおいてすら、いやだからより以上に王と王弟との派閥に分かれての抗争は陰湿かつ公然たるものであり、マールは歳若いハデスの盾となるべく身を挺したものであろう。
そのマールも、ホントを去ろうとしていた。
入室は別れの挨拶であろうかと考えた。明日か、遅くとも明後日には、この老臣は彼の前から姿を消す。
だが彼につづいて、もうひとりの男が入室してきた。
巨大な男であった。マールよりもふた回りもでかい。扉が開いた分をまるまるふさいでしまいそうだった。顔の下半分は黒く濃い無精髭におおわれ、眼は硬質の石のようであった。男が立つ扉から、まるで眼には見えない風が吹きつけ、少年の幼い身体を圧してしまいそうであった。
マールは抱拳し、丁寧に一礼をする。
「殿下、私は明日出立をいたします。当日はとりこみ、満足にお言葉を交わす余裕もないかと存じますので、非礼を承知でこうしてまかりこしました」
「……」
ハデスは重苦しくうなずいたのみであった。
「殿下、これより先は何者にも決して口外なされぬように、お願い申し上げます」
「どうした?」
緊張した口調に、思わず問いただしてしまった。
「まず――今後陛下と王弟殿下との間で、とりかえしのつかない争いごとがおきることは、ほぼ確実でございます。私やベルンも回避できるよう尽力いたしますが、もはやことここにいたっては、回避することは非常に困難であろうと云わざるをえません」
「争い……内乱になると云うのか?」
「……可能性は、きわめて高いかと……」
苦悩の表情をうかべつつマールは応えた。ハデスは疲れきったように、自分に不相応な豪奢な椅子に身体を沈ませた。
「愚かな……父も陛下も、何と愚かな……」
「すべてはパーンのきまぐれでございます」眼を伏せ、マールは応える。「殿下、いかなる事態になろうと、決して軽挙はなりませぬ。本国とホントではあまりに遠すぎますが、妄言や疑心にまどわされず、慎重に、くれぐれも慎重に判断なされてください」
「……マール」
「はい」
「もし……もしも父と陛下が争ったら……剣もて争った時は、私はどうしたらよいのだ?」
自分の耳にすら、感情を取りこぼしたような声音に聞こえた。
「……決して」マールは一瞬、顔を歪めた。「決して王に刃を向けてはなりません。たとえ父君に背くことになろうと、決して」
「父に仕えるお主もそう云うのか?父はそれほど、嫌われているのか?」
寄る辺を求めているようなハデスの言葉に、マールは首を振る。
「イオにおいては長子相続が決まりごとです。長幼の順逆を乱すことは赦されません。殿下がお立場をわきまえず王に刃を向けることは叛逆にございます。それゆえに、殿下が父君に加担されることは決して赦されません。もし殿下が父君とともに陛下に叛けば、擾乱はより大きくなるでしょう。何より殿下は叛逆者の汚名をかぶることになります」
マールは言葉を切る。ハデスは無言であった。ぎこちなく言葉をつづける。
「父君は、王弟殿下は……私も長い間仕えてまいりましたが、若年より実に聡明なお方でございました。実の兄君であらせられる現王陛下よりも、おそらくは王としての資質も富み……ですが……」
背後で鼻を鳴らす声がした。はっと振り返ったマールと、その男の視線がからみあった。男は揶揄するような皮肉な笑みを浮かべていた。ハデスもまたいぶかしげに眉をひそめる。
「ネロス……」
マールはつぶやくと、再びハデスへ向きなおった。小さくため息をつくと、何かふっきれたように口を開いた。
「申し訳ございません殿下。この期におよんでつまらぬ建て前を……」
(つづく)
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