【Ⅻ】
ところどころに小さく設えられた明かりとりの窓から、夕刻の陽が斜めにさしこんでいる。石造りのために重く薄暗い回廊はしんと静まり返り、屋外の練兵場の喧騒も歩をすすめるダゴンの耳にはとどかない。
「兄上――」
声をかけられて振り返ってみれば、カイネウスの色である青灰色の外套をまとった次兄のドランが、回廊の薄暗がりに身をひそませるように立っていた。
父譲りの大振りな眼鼻、たくましい体躯。兄弟の風貌はおそろしく似通っている。ダゴンの禿頭のみが大きな差異である。しかし両者が並ぶと、この兄弟は似て非なるものであることがわかる。まるでよく似通った形状の容器の中にまったく別の液体が入っているかのように。それが2つの歳の差なのかどうか、判然とはしない。
ドランの表情が思いつめているのに気がつき、ダゴンは弟と同様に回廊の陰に歩を進めた。窓の外からかすかに冬の雁の声が聞こえた。
兄と対峙したドランであったが、次の言葉は出ない。切り出しかねているドランに、ダゴンは特にいらだたしげな様子も見せず、しかし表情だけで言葉の先をうながした。
「……兄上」何度か逡巡したドランが、ようやく言葉を発する。「先日、何者かにお命を狙われたと聞きおよびました……」
事件からすでに旬日以上が経過している。今ごろ口に出すようなことではないが、その失われた時間がおそらくドランの心の迷いの量であったのだろう。ダゴンは苦笑した。
「そんなつまらんことを云いに、わざわざ来たのか?」
「兄上にお願いしたいことがあります」
「何だ?」
「父上と和解をされてください」
「……それは父にも云ったのか?」
「はい」
「それはできぬ相談だ」
云いつくろうこともせずに、ダゴンは弟の前で彼らの実の父親との確執をあからさまにしてみせた。何かを云いかけるドランを手で制し、つづける。
「これは私の方から望んだ関係ではない」
「なぜそこまで頑ななのですか……兄上から譲歩なされれば、父上もきっとお心を開かれるはずです」
「そのような頃合は、とうにすぎている。よいではないか。このままいけば、王の座はお主に転がりこんでくる」
「そのようなもの……!」苛立たし気に首を振る。「私などより兄上の方が、よほど王にふさわしいではありませんか」
「くれると云うものなら、もらっておけばよかろう」
ダゴンはむしろおかしそうに云う。
「兄上は身勝手でございます!」
不意にドランが叫び、冷たく静まる回廊に響いた。
「……何だと」
ダゴンから笑みが失せ、太い眉がはねあがり凶悪な風貌となるが、ドランはひるむ風はなかった。
「兄上と父上が争えば国が乱れることは必定です。にも関わらず、ご自分の感情にかまけて父上といがみ合うなど、国を省みない身勝手なおこないです」
「勝手なことを云っているのはどちらだ」
「それが兄上にとって王たる者の心構えでございますか?お言葉ですが、王たる者が善良であることを心がけずに、一体誰が従いますか?それはあまりに不実なのではございませんか」
「父の策動にのって、自分がとって代わろうというぐらいの気概がないのか?」ダゴンはむしろ冷笑に近い笑みを口の端にうかべる。「おまけに何の策もなくのこのことやってきて、ばか正直に和解しろなどと能天気に云う。この私を除いてでも後継にと思った相手がお前のような日和見とはな、こればかりは父に同情したくなるぞ。」
ドランの顔が蒼白となる。
「いいかげん自覚したらどうだ?お前には父の想いに従うか背くか、ふたつの道しかないのだぞ。この期におよんで無関係でいようなど、虫がいい話だ」
「兄上を襲わせたのは父上です」ドランが苛立たしげに、ダゴンの言葉をさえぎる。「父上から聞きました。アイマスが手配し、実行したのはバルドールです」
「なぜ知っている?」
「父上がアイマスと密談しております。父上はひそかに私を同席させました。」
「お前がそれを聞いたのか?」
「……はい」
次の瞬間、ドランは背中と胸元に激しい衝撃を感じていた。胸元の息苦しさに、うめき声がもれた。ダゴンが眼にもとまらぬ速さで突然弟の胸倉をつかむと、激しく石壁に押しつけていた。
「ふざけるな」
弟が今まで見たこともない憤激に満ちた眼。森の深奥の底の知れない湖のように、いつも重い静謐に満ちた兄にこのような激情が存在していたとは、弟は想像したことすらなかった。
「それを俺に話してどうするつもりだ?貴様がそれを聞いて告発しないのは、俺に対する害意をみとめたのと同じことだ。だがそれを俺に話すのは、王に対する裏切りだろうが!この卑怯者めが!」
言葉のあまりの激しさに、ドランがあえぐ。
「わ、私は……私は父上と兄上の仲を……父とてこの国を統べる者として苦悩してまいりました。何より兄上との関係を……」
「笑わせるな、そんなに自分だけ善良でいたいのか」
凄まじい嫌悪をこめて吐きだしたダゴンの言葉が、ドランの胸を深々とえぐり、総身から音をたてて血の気が引くのを感じた。
「貴様がやっていることは、ただの偽善だッ!」
荒い息づかいの両者が、言葉もなく対峙していたのは数瞬のことであった。悲鳴とともに、甲高い音をたてた酒器がその対峙を分けた。
思わず振り向いた両者の視線の先に、たった今あげた悲鳴を無理矢理押しこもうとするかのように掌で口元を覆い、身をすくませている女官の姿がすぐそばにあった。脚元には酒器が散乱し、中には粉々に砕けている酒盃もある。ひとつの酒盃がよろよろと転がり、回廊の陰で対峙していた彼らの脚元で倒れた。
ダゴンの腕から力がぬける。途端にドランは息苦しさを感じなくなった。
禿頭の公子が転がってきた酒盃を拾いあげると、女官に近づく。その背中に不穏な気配を感じたドランであったが、金縛りにでもあったかのように、言葉も出ない。
怯えて顔が蒼白な女官は、近づいてくるのが王宮内でそら恐ろしく噂されている禿頭公子であることに気がつき、また小さな悲鳴をあげた。ダゴンの体躯の前に、その女官はひともみでひねりつぶされてしまいそうなほどに、か細く見えた。
公子の顔をまともに見ないように身をすくませ、震え、今にもその場にくずれ落ちてしまいそうな女官の手を取ると、ダゴンは拾った酒器を手渡した。若い女官の手が、びくりとおびえるが、ドランからは兄の表情は見えなかった。
「粗相をいたすな」
それだけ静かに云うとダゴンは、もはやドランも女官を顧みようともせず、冴え冴えと静まりかえった回廊を去っていった。
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